中国から貴重な盾形銅牌飾が海外に流出してしまっている。何故中国の盾形銅牌飾が貴重な物かと言うと、盾形銅牌飾は中国最初の王朝・夏王朝の墓から三件出土したものが代表的なもので、青銅の板にトルコ石が精巧な技術で象嵌がされている。実際に下の図の左側2件は東京国立博物館で展示された。中国の国宝級のものである。
もともと盾形銅牌飾の出土数は少なくて、山東大学考古学系、王青教授の論文「象嵌銅牌飾の初歩的研究」(文物2004第5期)によれば、全部で16個しか学者には知られていない。このうち3個はトルコ石の象嵌が無いものなので、それを除くと13個がにトルコ石の綺麗な象嵌があるもので、それくらい少ないものである。その内、4個だけが中国国内に残されているだけで、他の9個は国外に流出してしまっている。中国に残された4個のうち3個が夏王朝の遺跡から出土したものである。この3個は河南省偃師二里頭遺跡で発見された。二里頭遺跡は夏王朝の宮殿跡が発見されたところで、夏王朝は二里頭文化に属するものである。
図1
3個のトルコ石の象嵌が無いものは長江文化(三星堆遺跡から出土)のもので、それを除いた13個を考古学者は二里頭文化のものだとしている。しかし、二里頭文化のものとハッキリしているのは上の写真の三件だけで、海外に流出したものはどこから出土したかは分かっていない。盗掘品だからであるからだろう。だから二里頭文化の物とは言い切れないのだが、中国の考古学者は二里頭文化のものと言っている。しかし流出したものの一部は斉家文化のものもあるらしいのである。何故二里頭文化のものでなく、斉家文化のものもあるらしいと考えられるかというと、私自身が斉家文化の盾形銅牌飾を収集していて、それと比較できるからである例えば下の二件は、上の二里頭文化の盾形銅牌飾(左側の二件)と極めて似ているが二里頭文化のものではなく、斉家文化のものである。
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図2 |
図3 |
ところで考古学者は斉家文化に盾形銅牌飾があることを全く知らない。しかし斉家文化にも盾形銅牌飾にあって、斉家文化のそれは二里頭文化の盾形銅牌飾のルーツとなるものである。それを下のページに書いた。夏王朝とか、二里頭文化とか斉家文化とかについて理解してもらうためにも下のページを先に読んで頂いた方が良いかもしれない。
盾形銅牌飾の研究 - 夏王朝の銅牌飾のルーツを発見
そして海外に流出した9個の盾形銅牌飾の中の一部にも斉家文化の物があること証明して、二里頭文化の盾形銅牌飾のルーツは斉家文化にあるという私の説を更に強調したいと思いついた。そしてその9個のカラー写真を、中国語のネットから探し出した。それらと私の収蔵した斉家文化のもの(図3)と比較すれば、流出した盾形銅牌飾のうちのいくつかが斉家文化の物だと推定できると考えた。斉家文化にも盾形銅牌飾があるという証明が重要なのである。なぜならそのことに考古学者は全く気が付いていないので、そのことは私の新発見と言えるのである。とにかく考古学者達はトルコ石の象嵌のある盾形銅牌飾は二里頭文化にだけあると考えているようである。そして海外に流出したものは9個で、9個の出土場所は分かっていないのに、二里頭文化のものと考えているようなのである。
実はその9個のほかに、中国語の検索サイトの画像検索などを使って、もう一つの海外に流出したものを探し出した合計10あることが分かった。しかし海外に流出したものはもっとあるかもしれない。海外への流出は闇の世界のことなので実際にはかなりの数が海外に流出してしまっているのではないだろうか。そして合計10個は、アメリカの大きな博物館や個人収集家の元にある。つまりこのことは、素性のハッキリしないものでありながら、収蔵者は中国の青銅行時代の、何か貴重なお宝かもしれないと思って収蔵したに違いない。実は私の収蔵したものも中国から海外への流出物と言えるかもしれない。それを手に入れた経緯とかそれが本当に斉家文化のものであるという説明は後で書くことにする。
二里頭文化とか斉家文化とか、4個とか10個とか、話がややこしいので表で整理しておくと。
中国に残された
トルコ石象嵌の
盾形銅牌飾
4個
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偃師二里頭遺跡から出土
したもので夏王朝のものと
ハッキリしているもの
3個 |
偃師二里頭遺跡から
出土したので二里頭
文化のものと分かっている |
図1
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出土したところは斉家文化
地帯の甘粛省天水から
出土しているので
私には斉家文化のものと
考えられる。
1個
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しかし学者たちはこれも
二里頭文化のものと主
張している。
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海外に流出した
トルコ石象嵌の
盾形銅牌飾
10個
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王青博士の論文に載っていた
ものでそのカラー写真を
ネットから写真を探し出したもの
9個
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学者は二里頭文化の
ものと主張している |
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私がネットで探し出したもの
1個
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図4 |
ここで私が言いたいことは、海外に流出したもの10個のうち幾つかは斉家文化のものであるが有るに違いないということである。上の私の主張を裏付けるには、海外に流出したもと、私の斉家文化のもの(図3)とを写真で比較してみればわかると考えた。何故図2ではなく図3と比較するかというと、海外に流出したものは何故か全てが獣面紋であるからである。それで図3の獣面紋のものと比較した。図2は人面紋であるから比較できない。
まず初めに、海外に流出した10個を製造技術が発達したものから並べてみる。斉家文化は二里頭文化の前の文化だから、古いものなら斉家文化と言えるからである。そして私のもの(斉家文化)と比較してみれば、どこ辺りからが斉家文化のものであるのかが分かるはずである。
まず最初は、日本のMIHO博物館に収蔵されているもので、製造技術が高度で、これは二里頭文化のものと言えるかもしれない。MIHO博物館の説明文では
名称 |
はいしょく
牌飾 |
産地
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中国 伝河南省 |
時代 |
二里頭文化 |
制作年 |
前1700-前1500年頃 |
素材 |
青銅、トルコ石、木、布または麻 |
寸法 |
H-15 W-8.5 |
とある。出土地は伝河南省と書いたある。この伝河南省の”伝”という意味は河南省と伝わっているという意味で、河南省は二里頭文化の本家本元であるが、本当に河南省から出土したかどうかはわからないという意味でもある。それはともかく夏王朝の秘宝に似たものが日本にも流出しているのである。実はこのものについての興味は、どうやって誰から手に入れたのか、である。MIHO博物館についての旧い深い記事を検索したことがあるのだが、MIHO博物館の展示物の古代ローマの出土について、イタリア政府からクレームが付いたという記事を見たことがある。
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海外流出物の
1
日本の MIHO博物館
で収蔵展示されている。
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中国山東大学の王青
博士の論文にあった
海外に流出した
銅牌飾の図
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海外流出物の
2
アメリカの
ハーバート大学サックラー
博物館収蔵品
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中国山東大学の王青
博士の論文にあった
海外に流出物した
銅牌飾の図
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海外流出物の
3
ロンドンで競売に
出されたとするもの
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海外流出物の3と4の間に、私が収蔵した斉家文化のものの写真を置いてみる
図4(図3とおなじもの)
上と比較して、以下のものは技術的に低いから斉家文化のものと考えてみていいのではないか。つまり海外に流出したものの中に斉家文化のものは確かにある。
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海外流出物の
4
ポール・シンガー氏の
収蔵品
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中国山東大学の王青
博士の論文にあった
海外に流出物した
銅牌飾の図
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>海外流出物の
5
ホノルル芸術学院の
収蔵品
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中国山東大学の王青
博士の論文にあった
海外に流出物した
銅牌飾の図
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海外流出物の
6
アメリカの
ハーバート大学サックラー
博物館収蔵品
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中国山東大学の王青
博士の論文にあった
海外に流出物した
銅牌飾の図
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< |
海外流出物の
7
ポール・シンガー氏の
収蔵品
中国山東大学の王青博士の論文にはなかった
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図4 |
海外流出物の
8
ドイツで2006年に
競売に出されたもの
中国山東大学の王青博士の論文にはなかった
図4
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海外流出物の
9
1999年にニューヨークで
王青博士が見たという物
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中国山東大学の王青
博士の論文にあった
海外に流出物した
銅牌飾の図
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海外流出物の
10
アメリカの
ハーバート大学サックラー
博物館収蔵品
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中国山東大学の王青
博士の論文にあった
海外に流出物した
銅牌飾の図
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このように海外に流出したものと、私の斉家文化のもの(図4)とを比較してみて、海外流出物の4あたりからが、斉家文化のものとしたが、二里頭文化のものと斉家文化のものとに明確な境があるようには感じられなかった。そのことは斉家文化にもかなり高度な加工技術があったことを示していると思う。
どの様な高い加工技術かというと、まず図1で示した夏王朝の三件には、象嵌の基盤となる青銅板に反りが入っている。反りを入れる為には上下二枚の鋳型を使ったのではないかと考えられる。この三件に反りが入っていることは山東大学の王青博士の論文の図で確認できる。他に海外流出物の1(つまり日本のMIHO博物館にあるもの)と海外流出物2の(アメリカのサックラ―博物館にあるもの)には反りが入っているように見える。そして私の収蔵品も薄いのに反りが入っている。
このことは斉家文化にも鋳型を使った高い技術があったことを示している。斉家文化からは世界で最初の青銅鏡が出土していることからも鋳型は存在したらしい。
二里頭文化のものと斉家文化のものが似ていることを拡大写真で示してみると。
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二里頭文化(夏王朝の遺跡から出土したもの
(図1の中央のもの) |
斉家文化のもので私が収集したもの
(図3又は図4)) |
二つのの銅牌飾の目の部分を拡大してみると吊り目の辺りの作り方がよく似ている。しかも両者の目の中央に瞳があるように見える。これはわざわざ作たものか偶然できたものかハッキリしないが。
実は私は斉家文化の盾形銅牌飾を他にも沢山集めていて、それは
盾形銅牌飾の研究 - 夏王朝の銅牌飾のルーツを発見
見ていただくと分かると思うが、私が集めた斉家文化の盾形銅牌飾の大部分は、製造技術が低く、だからこそ二里頭文化のルーツであることが分かるくらいのものである。しかし図3(図4と同じもので私が持ってもの)は特別に高度な技術で作られている。そうなると図3のものは斉家文化のものではなく、二里頭文化のものではないかと疑問がわくかもしれない。しかしそれを手に入れた経過からしてやはり斉家文化のものなのである。
私が集めた盾形銅牌飾が斉家文化のものであるという根拠は下にしつっこく書いた。
収集した盾形銅牌飾を斉家文化の物だと鑑定して貰いたい
に書いたので読んで頂きたい。
私が収蔵したもの(図3)が、斉家文化のものであることについて、証明しておかなければならないだろう。2009年の中国の国慶節に北京の潘家園骨董市場に、斉家文化の玉器や青銅器を買いに行った。その時、売人からこんなものがあると見せてくれた。
2009年10月4日のことであるが、イスラム教徒の回族の売人が見せてくれたもので、まだ土が付いていた。これは買うべきものだと直感して買いたかったが、とても高かくてその時はお金もなく買えなかった。買った場所は北京の潘家園の骨董市場で、下の写真のように斉家文化の玉器と一緒に地べたに並べられていた。店を持たずにこんな風に商売をしているから売人と呼ぶのだが。
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売人と言ってみたり、こんな写真を載せると信憑性がなくなってしまうかもしれないが、この頃には盾形銅牌飾についてはかなり調べていたから、買うべきものだと確信した。それで北京の元いた会社の女性の部長に値下げ交渉をしてもらうことにして、その部長と回教徒と何回も値下げ交渉を続けてもらった。交渉を続けていると、予想どおり春節(旧正月)が近づくにしたがって値が下ってきた。中国人は春節には故郷に帰る習慣がありその時は金を持って帰りたいのではないかと予想していたのである。そして春節の前(盾形銅牌飾を見せて貰ってから4っか月後)にまた北京に行って、それを買ってきたのである。北京の春節の頃(2010年2月)は本当に寒かった。
購入した図2の盾形銅牌飾(図3と同じもの)は、売人の話に拠れば、売人のお父さんが30年くらい前に、掘り出した人から40枚くらいも購入したもので、その中で状態の良いものは4、5枚しか無く、もっとも状態が良いものを手元に残しておいたのだとか。出土地について聞いた見たところ、甘粛省の臨夏市の周辺の東郷県龍泉鎮とか韓集県とか言っていた。しかしが盗掘した正確な場所をしゃべるとは思えないし、広河県斉家坪とかの名前も挙げていたが、ここは斉家文化の命名の基となった有名な場所である。だからここから掘り出したなんてにわかには信じられないが、いずれにしても甘粛省の斉家文化があったあたりの地名を言った。この売人がでたらめを言うにしても自分の知識や見分の範囲でしか言えなかったのだと思う。それに回族の骨董屋の一部は斉家文化に盾形銅牌飾が有ることを知っている。
もし売人が夏王朝にも盾形銅牌飾があると知っていたら、その物の価値を高める為に、これは夏王朝からの遺跡からの出土物だと言ったと思う。そしてそれを信じて私がそれを買ったとしたら私は夏王朝の国宝級のお宝を持っていることになるのだが。しかし上に書いたとおり盾形銅牌飾を手に入れた経緯からも、私の持っている物は夏王朝の国宝級のお宝とは言えないのである。しかし馮とか言ったその人物はこれと同じものがどこかの博物館にあるとも言っていた。二里頭文化に盾形銅牌飾があることは知らないのだが価値がありそうなものだ位は思っていたようで、かなり高いことを言っていた。しかし4か月たっても売れなかったので私が買えたのである。そうして上に挙げた10件の海外流出品と同じようにこれも私のもとに国外へ流出したのである。そして10件の海外流出品と同じ様な物だからアメリカの
ハーバート大学サックラー博物館にあるもと同じ位の価値はあるのかもしれない。
以上の検討から
①斉家文化の中にも盾形銅牌飾は存在する。
②夏王朝の盾形銅牌飾のルーツは斉家文化にある。
③海外に流出した盾形銅牌飾にも斉家文のものがある。
④斉家文化の盾形銅牌飾には二里頭文化に近い高度な技術で作られたものもある。
という結論は出せると思う。しかしながら、考古学者からはなかなか信じて貰えないかもしれない。信じない理由は、学問的には出土地がハッキリしていないものは信じられないということなのだろう。しかしもしそういう理屈なら、学者達(日本の歴史学者も含めて)が国外に流出した盾形銅牌飾の全てを二里頭文化のものと推定することは止めたほうがいいと思う。なぜなら国外に流出した盾形銅牌飾がどこから出土したのかは全く分かっていないのだから。国外に流出した盾形銅牌飾が二里頭文化のものだと言える理由は、夏王朝期の墓から出た盾形銅牌飾(図1)と、流出したものとが似ているからと言う理由に過ぎないのだから。
余談1(どうやって流出した10件の画像を捜し出したのか)
中国語のサイトで百度という検索サイトがある。そこに盾形銅牌飾ではなく“镶嵌绿松石兽面纹铜牌饰”と入力して検索すると盾形銅牌飾のよく検索できる。盾形を銅牌飾に付けたのは私が作った言葉だから検索にはよくない。それより中国語で镶嵌は象嵌のことで、绿松石はトルコ石のこと、兽面纹は獣面紋のことで、中国語で検索すると良く引っかかる、それに海外に流出した10個の殆どが獣面紋(目が吊り上がった狐目をしている)なのでよく検索に引っかかったようである。それと画像を使って検索した。画像の似たものが検索できるからである。
また、百度という検索サイの中で百度学術というサイトで検索すると考古学の論文が検索できる。その論文のタイトルを見ても斉家文化の盾形銅牌飾についての記述はないようなので学者は斉家文化の盾形銅牌飾については知っていないと思えるのでる。
余談2(中国のコレクターは斉家文化の盾形銅牌飾について知っているか)
中国には斉家文化の玉器のコレクターが非常に多い。斉家文化の青銅器のコレクーが多いかどうかはわからないが、斉家文化の盾形銅牌飾について知っているかどうか調べてみた。何回も書いたように考古学者は知らないが、一部の骨董屋と売人は知っている。青銅器のコレクーが収蔵家の情報交換サイトに載せた画像があったのであるが、その写真の下に説明があって、写真のものを二里頭文化のものとしているが、このものの出土地は甘粛省で、二里頭文化と斉家文化とには密接な関係があったことを反映しているとと書かれている。少なくともこのものが斉家文化があった地域から出土したことは知っているようである
■北京 汪遵国 侯彦成
二里头文化 高13.2厘米,上宽8.9厘米,下宽8.4厘米
绿松石片镶嵌在青铜模铸铜牌上。牌为圆角长方形,中部呈弧状束腰,两侧边缘各有二穿孔纽(右边已残缺)。凸面,面上用不同形状、大小不一的绿松石片(共166片)镶嵌排列成兽面(又称饕餮)。
河南偃师二里头遗址在1981年、1984年、1987年墓葬中各出土一件,共3件。此件出土在甘肃,反映二里头文化与齐家文化的密切联系。传世品流散国外,其中美国6件、英国1件、日本1件,共计8件,此外,在四川三星堆发现体型较长、兽面纹有别的2件,时代较晚,说明二里头文化对三星堆文化的影响。
また斉家文化玉器の交流サイトでは玉器として下の写真が載っていた。しかしこれは明らかに玉器ではなく青銅器の盾形銅牌飾である。誰かがこれを斉家文化のものとしてを持っているのことはたしかである。
余談3(海外に流出した盾形銅牌飾は10個だけか)
実は、海外に流出した盾形銅牌飾は10個だけではない。下の4個はある日本人が見せてくれた写真で、これは日本にあるのだから、中国から海外への流出品である。この人は家に来てくれたので私のものを見せたことがある。この人と知り合った事情は省略するが、この人が購入した人物はどうやら私が知っている売人の馬さんらしい。出所が回族の馬さんならば、これらの盾形銅牌飾はやはり斉家文化のものである。回族の馬さんは一人だけではなく、回族の多くが馬さんなのだけれど。
余談4(私が買わなかった、いや買えなかった盾形銅牌飾)
左のものは前に書いた女性の部長が、馮さんがもう一つ持ってるものと、北京から写真を送ってくれたが買わなかった。これは私の買った物とトルコ石の並べ方がよく似ている。出所は同じかもしれない。右側のものも並べ方がよく似ているが、これはいつ見たものだか思い出せないが写真は撮っておいた。それにしても買ったおけばよかった。
最後の余談であるが、盾形の銅牌飾は中国の考古学者の論文よれば16個位しか知らないというが、探してみると結構あるのである。コレクターが集めたものや海外に流出したものは沢山ある。二里頭文化ではなく斉家文化のものもたくさんある。それを証明するために盾形の銅牌飾の写真を集めてみた。これほど盾形銅牌飾について研究した人は日本では私一人だけかもしれない。そう言ってみてもチョット空しい。斉家文化の盾形銅牌飾については誰も知らないのだから。イスラム教徒の回族で売人又は骨董屋のの馬さんは知ってはいるのだけれど。
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