収集した盾形銅牌飾を斉家文化の物だと鑑定して貰いたい
 

 私は「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という新事実を発見したのだが、それを認めて貰うには、夏王朝には銅牌飾が存在し、一方の斉家文化にも銅牌飾があることを認めて貰わなければならない。夏王朝に銅牌飾があることは一部の学者にはられているが、斉家文化の方に銅牌飾があることを知られていない。私は知られていない方の斉家文化の銅牌飾を収蔵しているのだが、私が持っている物が斉家文化の銅牌飾だと鑑定して貰いたいたいのである。だが誰に言えば鑑定して貰えるのだろうか。

これが私が持っている銅牌飾斉家文化のものである

 鑑定してもらうと言っても「なんでも鑑定団」の先生方では駄目である。以前「なんでも鑑定団」のスタッフからメールが来て「なんでも鑑定団」に出品して貰いたいと依頼があった。しかし私は「鑑定してもらうのはいいが、この物を見たこともない骨董屋が定出来ますか?」と回答したらその後連絡が来なくなった。見たこともない人に「あまり人に知られていない物だから、価値は高くはない」なんて鑑定されても、そんな鑑定では私の説の証明の為には何の役にも立たない。夏王朝の銅牌飾であっても斉家文化の物であっても、日本には銅牌飾の現物を見た人が殆どいないの確かなことである。(実は夏王朝の銅牌飾は二個が上野の東京国立博物館で近年展示されたことがある。しかし小さいもの(高さ14㎝位)なので、記憶している人は殆ど居ないかもしれない。)

 私が中国で集めた物は、銅牌飾と言われるもので、それは盾形をした青銅の飾り物であって、トルコ石の象嵌がある。これを盾形銅牌飾と言ってもいいのだが、この盾形という形状だけを見ても日本には二つと無い形状をしていて、極めて珍しいものなのである。極めて珍しいものであるが、日本の中国関係の歴史の本の中には盾形の銅牌飾の写真や図が載っている。岡村秀典博士の「夏王朝・中国文明の原像」という本のカバーの写真に使われているし、宮本一夫著「神話から歴史へ(神話時代夏王朝)」の321ページにも図が小さく載っている。一部の中国関係の考古学者や歴史学者の中では盾形銅牌飾は確かに知られている。

 盾形銅牌飾とか夏王朝とか、二里頭文化とか斉家文化について知らない方は、何のことかさっぱり分からないかもしれない。この言葉について知りたい方は、私が作った言葉ではあるが「盾形銅牌飾」と入力して、パソコンで検索していただきたい。そうすると下のように書かれたウェブサイトが検索されるので、それをクリックして読んでいただければ斉家文化(中国の西北部にあった文化)などについて理解できるだろうと思う。このウェブサイトも私が作ったサイトであるが。なおGoogleの検索で盾形銅牌飾の画像が出てくるが、それらは殆どが私のウエブサイトからのものである。
   盾形銅牌飾の研究 - 夏王朝の銅牌飾のルーツを発見
上をクリック

 私が収集したものが、斉家文化の物であると認めてもらいたいのだが、しかし最近思ったのだが、それを斉家文化の物であると認めてくれる権威ある考古学者とか歴史学者は誰もいないのではないかと、かなり絶望的になってきた。私が死ぬまでにその説を認めもらうのが、私の老後の僅かな望みであるのだが。

 一部の学者の中に知られている盾形銅牌飾ではあるが、それらは殆どが夏王朝の時代の、文化年代で言えば二里頭文化の物とされている。しかし私が待っている物は斉家文化の物である。斉家文化の盾形銅牌飾はその存在を中国の学者達にも知られていない。その知られていない斉家文化の盾形銅牌飾を根拠にして、「ルーツは斉家文化にあると」いうことを認めて貰うにはかなりハードルはかなり高い。

こちらは二里頭遺跡から出土した二里頭文化(夏王朝)の銅牌飾

 二里頭文化(夏王朝)の銅牌飾でも、斉家文化で銅牌飾あっても、盾形であることが似ている。そのほかに青銅製であること、トルコ石の象嵌がされていること、文様は人面紋であるか獣面紋様であることは似ている。二里頭文化(夏王朝)の盾形銅牌飾の特徴とかなり似ている物が北京の潘家園という巨大な骨董市場で売られていた。ただしその物は夏王朝と似ているが違うところがあって、例えば加工技術が低いとか文様が簡素であるとか、夏王朝の物とそっくりではない。そこで売られていた物を斉家文化の物だとする考古学の論文でもあれば事は簡単なのだがそれは無いらしい。だから日本人で権威のある人(夏王朝の銅牌飾については知っている人)が、私の持っているものをこれは斉家文化の物だと言っていただける可能性は低いと考えられる。それで私の「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説を認めて貰うハードルはかなり高いことになる。

 北京の潘家園で売っていた盾形銅牌飾や私が持っている物を、斉家文化の物だと言ってくれる可能性は非常に低いけれども、夏王朝の銅牌飾について知っている人が、北京まで行って調査して貰えれば斉家文化に盾形銅牌飾があることが解ってもらえる可能性はある。北京まで行って貰わなければ、斉家文化に盾形銅牌飾があることが解って貰えないと思う。その理由は北京の骨董市場がそのことを証明する場所だからである。しかし夏王朝の銅牌飾についてしている人が私の為に、一文の得にもならないことをするだろうか。それで「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説は殆んど認知されない運命のように思える。

 しかし私にしてみれば「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説は確信のあることである。それは、ⅰ斉家文化の玉(ぎょく)器の牌飾、ⅱ斉家文化の青銅器の牌飾、ⅲ二里頭文化(夏王朝)の青銅の牌飾、と下に並べた通り、二つの文化で盾形の形状、象嵌の技術、トルコ石などが使われていることから、夏王朝の二里頭文化の銅牌飾は斉家文化から伝播してきたことは明らかである。下のⅰとⅱの斉家文化の物は私の収集物であり、ⅲはネットで探した写真である。

ⅰ斉家文化の玉(ぎょく)器の牌飾


ⅱ斉家文化の青銅器の牌飾


ⅲ二里頭文化(夏王朝)の青銅の牌飾


 上の形状、製造技術
を見れば、夏王朝の銅牌飾は斉家文化から伝播したという説は明らかなのであるが、それを信用して貰えない点があるとすると、斉家文化に銅牌飾が本当に存在していたのかという疑問だろう。なにしろ中国の考古学者でも斉家文化の盾形銅牌飾の存在を知らないのだから。しかし、斉家文化にも盾形銅牌飾があるという根拠は沢山あるのである。その根拠を書いておくと、

骨董屋のカタログに盾形銅牌飾が斉家文化の物として載っている。       
                           

盾形銅牌飾を売っている骨董屋又は売人は斉家文化の物だと知っていて、そう言って売っている。売人という意味は店を持っていない人を区別していっている言葉。        
③ 盾形銅牌飾を売っている骨董屋又は売人の殆どが「馬」という姓を持つイスラム教徒の少数民族の回族で、甘粛省の斉家文化が栄えた地方の出身であって、骨董屋又は売人の出身地と、斉家文化の文物の出土地とは一致している。

④ 斉家文化は沢山の玉器が出土する文化でもある。その玉器の中には盾形をした玉器(青銅器ではなく)も沢山出土する。そして斉家文化は青銅器が同時期の文化の中で一番多く出土する文化なのである。また斉家文化では中国で最初の銅鏡が出土している。ならば斉家文化の中に青銅器の牌飾があってもおかしくない。玉器の牌飾は上に写真で示した。

⑤ 中国の考古学者の中には銅牌飾について研究している学者がおられる。山東大学の王青博士である。王青博士の論文{「象嵌銅牌飾の初歩的研究」(文物2004第5期)}によれば、盾形銅牌飾は16個だけしか現存していないとおっしゃっている。そしてその物は大部分が二里頭文化のものであると言っておられる。他には長江文化(三星堆遺跡から出土)の物が三個だけ含まれている。それにはトルコ石の象嵌は無い。その他の二里頭文化の物としている中に一個だけ、斉家文化の物と思われるものがある。その出土地は甘粛省の天水であると分かっている。天水は斉家文化の範囲である。だから天水出土の銅牌飾は斉家文化の物だと考えられる。中国の考古学者は斉家文化に盾形銅牌飾があることを知らないから、二里頭文化のものだと言っているのである。

これが天水出土の銅牌飾で、天水は斉家文化の範囲なので斉家文化の物と思われる


⑥ 山東大学の王青博士によれば、現存する盾形銅牌飾は16個だけとしているが、実は王青博士はニューヨークで別の二個の銅牌飾を見ている。そしてそれは偽物だと言っておられる。偽物だとする根拠はトルコ石を象嵌する技術が粗雑であって、紋様も二里頭文化の物と似ていないと言う。もう一つの根拠はこの物には青銅を彫刻刀で彫り込んでいて、そこにトルコ石をはめ込んだような加工技術あるのを見て、青銅器時代(鉄器時代ではない)にはそんなことができる工具があるはずも無く、だから偽物だというのである。しかし斉家文化の玉器の方を見れば、玉器に対して高度の加工技術で加工した物は多数存在するのである。(どの様な方法で・工具その様な精緻な加工でしたのかは謎なのであるが)。トルコ石を象嵌する技術が粗雑であっても、青銅を彫刻刀で彫り込んだように見える加工がされていたとしても、この二つを斉家文化の物とするのは何も不自然さは無いのである。文様が似ていないとおっしゃるが、偽物とする物の文様は獣面紋であって、二里頭文化の中にも獣面紋はあり、偽物とする方が稚拙だったとしても、それは二里頭文化のルーツに当たる斉家文化の物だとすれば稚拙さに不自然さは無い。

これが王青博士が偽物だと言っている銅牌飾。しかし斉家文化の物と考えられる

⑦ 斉家文化と二里頭文化との関係についてそれを論じた人はほとんどないのだが、⑤に書いた天水出土の銅牌飾について、天水博物館にあることを見つけ出した人がいる。その方は中国の陜西省考古研究所の張天恩博士である。この方の論文を読んだのだが、天水から銅牌飾が出土したことから考えて、二里頭文化の青銅器のルーツは斉家文化にあるのではないかと言っておられる。斉家文化に銅牌飾があることにはご存じないので、二里頭文化の銅牌飾のルーツは斉家文化にあるとまでは言っておられないが、二里頭文化の青銅器のルーツが斉家文化にあるのだとすれば、二里頭文化の銅牌飾のルーツも斉家文化にあるとしてもおかしくない。そして⑤のものは斉家文化のものに間違いない。張天恩博士が本当に上記のような主張をしている証として、また張天恩博士の論文を私が本当に読んだ証として、その一部を訳して載せてみた。

 張天恩「天水出土の獣面紋銅牌飾とその関連問題」(中原文物2000第1期)より

 『二里頭文化の二期(夏王朝)になってようやく少量の銅器が出現した。M5:4の盾形銅牌飾以外は小さいものだけである。三期になると銅器は明らかに増加して、代表的な容器である“爵”が現れた。これは斉家文化との交流時期とつじつまが合う。このことは非常に重大な学術問題に触れることになる。すなわち二里頭文化の青銅器の発展は、斉家文化から影響を受けたことを排除できない。この種の文化交流の原動力は、治銅工芸と銅資源の獲得を可能にすることであった。

 確かに中国中原の龍山文化の晩期に、青銅の残片が出土している例は数例ある。しかし斉家文化の数量にははるかに及ばない。そして龍山文化には二里頭文化の青銅器と結びつける根拠が欠けている。それで龍山文化を二里頭文化の青銅器の唯一のルーツとする根拠には不足しているのである』

 『甘粛省東部地区の古文化(斉家文化など)と二里頭文化に関係があるかどうかに注意する人は少なく、両者の関係についてのまじめな研究はほとんど無かった。斉家文化の晩期と、二里頭文化の早期は時期が接していた。二つの文化の間で青銅の技術について、何らかの関係があった可能性がある。しかし残念ながら、そのことを示す証拠が無かった。天水から二里頭文化のものと似た銅牌飾が出現したことは、その問題の研究に貴重な資料を提供することになった』

 中国の張天恩博士(北京大學歷史學博士、陝西省考古研究所主任、西北大學西藏民族學院兼職教授)は二里頭文化の青銅器のルーツは斉家文化らしいと言っておられる。となれば二里頭文化の銅牌飾のルーツも斉家文化にあってもおかしくない。もし二里頭文化の青銅器のルーツが斉家文化にあるらしいと言っておられ張天恩博士に、私の持っている銅牌飾を見ていただけるなら、斉家文化にも銅牌飾があることを認めて貰えるかもしれない・・・・。

 いやしかし他の中国の考古学者だったら認めてくれないかもしれない。何故なら張天恩博士の論文にあるように、二里頭文化の青銅器の源流を考えるとき、大部分の学者は中国中原の龍山文化にその源流があると考えているようである。一方、斉家文化の青銅器についての研究は殆どないらしい。青銅の出土物は、龍山文化のそれはほんのわずかであるのにである。龍山文化は中国中原の文化で、青銅器の源流は中国の中原(中央部)であると考えたいらしいようである。中央から外れた西の戎(えびす)と関係が有るとは考えたくないのかもしれない。中国の考古学者は案外中華思想の愛国主義者なのかもしれない。

 もう一つも中国の考古学者が認めたくないことがもしれない。それは北京の骨董屋や売人が持っている物が盗掘品であることである。事実は盗掘品だからこそ斉家文化のものが北京の骨董市場に並べられるのである。盗掘がなければ斉家文化のものが北京まで運ばれて並べられることは無いのである。盗掘品は斉家文化の物に限らず馬家文化のアンソン土器などが沢山並んでいる。

 以上が北京の骨董市場で売っていた銅牌飾や私が持っている物を、斉家文化の物だとする根拠である。そしてそれを権威がある人に斉家文化の物だと鑑定して貰いたい理由である。とともにその願いがかなわないかもしれないという恐れの説明である。

 ついでに、中国の考古学者は斉家文化に銅牌飾が存在することについて、何故気が付かないのか? その理由にについて書いてみたい。最初に王青博士の論文によれば確認されている盾形銅牌飾は16個だけなのだが、その内、中国国内に残されているものは7個に過ぎなくて、9個は海外に流出しまっている。流出先は日本のMIHO 博物館に一個あり、ほかはアメリカの博物館や大学に収蔵されている。個人で収蔵されている物もある。これらの物は出土場所が一つも明らかではない。このことはだれかが秘かに掘り出して秘かに海外へ売り払ってしまった物ではないかと思われる。そうして海外のコレクターは、これらのものについて貴重で価値がある物だと認識しているのだと思う。海外のコレクターが貴重なお宝だと認識しているならば、ほかにも貴重な文物が盗掘され海外に流出している恐れがあるのではないだろうか。これでは貴重な文物が海外に流出してしまって研究の対象にならない。

 斉家文化の盾形銅牌飾は中国の学者に知られていないのだが、それを知らない理由の一つは、やはり斉家文化のものが人知れず掘り出されて売られてしまって、研究者は何も気が付かないのかもしれない。掘り出す場所は甘粛省の斉家文化があった地帯である。そしてそこから掘り出すのはそのあたりに住む回族と言われるイスラム教徒の少数民族である。北京で売っている骨董屋や売人もイスラム教徒の回族である。掘り出す人と売っている人物は別の人物で、掘り出す人と売る人のシンジケートがある。盗掘品が北京で売られているという事実は、甘粛省から出土する「彩陶」(日本ではアンダーソン土器と言うのだが)でもっとも顕著である。「彩陶」は潘家園の骨董市場でたくさん売られている。骨董市場の近くには掘り出された「彩陶」の倉庫さえ秘かにあった。私はそういうところまで行って「彩陶」や斉家文化の玉器を買ってきた。そして斉家文化の銅牌飾も買ってきた。それらが買えたのはイスラム教徒の回族の骨董屋や売人たちと親しくなったからである。さらにそれらの物が甘粛省で掘り出されて北京で売られている事情も分かってきた。8年間北京に居たが、平均すれば月に2回位は北京の潘家園骨董市場に行っていて、今になって盾形銅牌飾や彩陶を時々見ては思うのだが、潘家園によく通ったなあと思い出すのである。

北京の潘家園の近くのアジトにあった彩陶(アンダーソン土器)
上の写真の中に斉家文化の彩陶は無いようである。


これは斉家文化の彩陶。斉家文化の彩陶は無紋のものが多い。


のアジトには斉家文化の玉器もあった。青銅器は無かったが。
奥にある円盤のような形は壁(へき)と言われるものである。
玉で出来たいるから玉壁(ぎょくへき)と言われる。
玉壁は完璧の語源になった玉器で、中国戦国時代のエピソードから完璧と言う言葉ができた。インターネットででも調べればわかるでしょう。

私の趣味はアンダーソン土器のコレクション



 ホームページトップへ戻る




inserted by FC2 system