トップ アイコン 銅牌飾が来た路・青銅が来た路   トップ アイコン

ついでに青銅鏡が来た路、銅鐸が来た路も


 銅牌飾が来た路を探っていくと、新疆のハミ天山墓地遺跡にたどり着いた。夏王朝の遺跡から国宝級のトルコ石の象嵌のある銅牌飾が、三個出土しているが、その銅牌飾はハミ天山北路墓地で初めて出現し、斉家文化でトルコ石の象嵌が加わり、中原の二里頭文化の夏王朝に伝播した。銅牌飾が来た道は中国語のネットで探し出した画像を、地図上に並べるだけでが分るはずである。そして考古学者の多くの説は斉家文化にトルコ石象嵌の銅牌飾は無いとしている。この地図上に私の収集品(斉家文化のもの)を加えれば、斉家文化に「トルコ石象嵌の銅牌飾」があったことがより明確になるのだが、それをしなくても、銅牌飾が来た道は分かるはずである。銅牌飾の路はハミ天山北路墓地が出発点で、途中の斉家文化でトルコ石の象嵌が加わっり、二里頭文化の夏王朝に伝わりそこが終点であった。もう一つの終点は長江文化(三星堆遺跡)である。斉家文化にはトルコ石の象嵌が銅牌飾があったのである。銅牌飾が来た路

 銅牌飾が来た路でについて調べていくと、青銅が中國に来た路もはっきりしてきた。青銅は紀元前3000年頃、初期のメソポタミア文明であるシュメール文明で出現したとされている。青銅の技術は西アジアに起源があり、シルクロードを通って中国に入ってきたのは確からしい。そして青銅の器物、つまり銅牌飾とか青銅鏡、ナイフが出現したのはハミ天山北路墓地遺跡とその周辺である。そこより西のタクラマカン砂漠の東側にある「小河墓地遺跡」からは小さい銅片しか出土していない。小河墓地遺跡は有名な楼蘭(ローラン)から西に約百キロの砂漠の中にある遺跡であるが、その発掘記録の中に、「立木の先端に小さな銅片がはめ込まれているものも発見された」とある。その発掘記録は次のサイトで日本語で読める。タクラマカン砂漠から大量に出土中国最古のミイラ群(👈クリック)。その立木とは下のような墓標の為の立ち木である。


 銅牌飾が来た路を西へ遡っていくと、美しいミイラにたどり着いた。小河墓地遺跡の女性の【M13】のミイラからは、「円形の銅片7枚がついた毛織物の腰当が見つかった」とある。小河墓地でみつかった下の写真のミイラとは別のミイラである。下のミイラは【M11】で、小河墓地遺跡のミイラには白人系の血が混じっているらしい。【M11】のミイラの顔が白いのは何かを顔に塗ってあるせいなのだが。
小河美女

 それで以前「ローランの美女」として有名になったミイラがあることを思い出して検索してみた。「ローランの美女」は新疆の博物館にあるのだが真黒な顔で美女とは言えない。「ローランの美女」とはタクラマカン砂漠 の東、楼蘭鉄板河遺跡で発掘されミイラのことである。


 それで「ローランの美女」が出土したときは美女であったのかどうかかを調べてみたが、出土したばかりの写真は探せなかった。1979年出土のミイラとローランの美女のミイラとは似ているという記述があり、その1979年出土のミイラの写真は確かに白い顔をしたしていた。

長沢和俊著「楼蘭王国史の研究」P509

 確かにローランの美女の顔は白かったらしい。顔が黒くなったのは、博物館の日本語ガイドによれば、「彼女のDNAを調べると、ヨーロッパ人の血が70%くらい入っているアーリア系人種とのこと。 発掘後に上海での防腐剤処理をしたため肌が一気に黒ずんでしまったが、以前はその美しさに世界中が驚愕したという」とある。尚、小河墓地のミイラをローランの美女と勘違いしている人もいるようだが、ローランの美女と言われるミイラは1980年にタクラマカン砂漠 の東、楼蘭鉄板河遺跡で発掘されミイラである。

 小河墓地出土のM11のミイラは中国では「小河美女」とも言われ、世界でもっと美しいミイラと言う人もいる。因みに『ウィキペディア(Wikipedia)』に載っている女性のミイラは「ローランの美女」ではなく、別のミイラである。タクラマカン砂漠 の東でロブノール湖の北のあたりで出土するミイラは結構多いのである。

ウィキペディア(Wikipedia)に載っていたローランの美女としている写真



 話が逸れたがミイラの話ではなくて「青銅の来た路」に話を戻すと、青銅の来た路は堂教授の論文・史前青銅の路と中原の文化(中国語)を見ると分る。劉学堂教授の論文にもタクラマカン砂漠の東の端にある小河遺跡や孔雀河古墓溝墓地についの記述があり、鏃や紐通し穴のある円形銅鏡や耳輪が出土した記録がある。しかしその写真は見当たらない。果たして小河遺跡や孔雀河古墓溝墓地遺跡でも穴のある円形銅鏡などが出土していたのか?
青銅が来た路

 前述の通り【M13】のミイラからは「円形の銅片7枚がついた毛織物の腰当が見つかった」とあり、小河遺跡では僅かな銅片しか出土していないようだが、青銅の路は小河墓地遺跡から更に東進して、ハミ天山北路墓地遺跡では明らかに大きな器物の青銅が出現する。


ハミ天山北路墓地遺跡出土の青銅

 更に青銅の路は東に進み、シルクロードの入り口である河西回廊に入り、そこには四ベイ文化がある。四ベイ文化火には焼溝遺跡があり、ここからは青銅器が沢山出土しナイフなどがあるが、青銅鏡や銅牌飾は見当たらない。



 更に青銅の路は東進して斉家文化地帯に至る。斉家文化では青銅鏡(1)が見られ、銅牌飾(18)も出現している。



 下のものは二里頭文化のものだが、明らかには西の文化からの影響で二里頭文化に出現したものである。銅牌飾だけでなく、青銅刀も斉家文化の伝播したものである。



 更に夏王朝の二里頭文化に至って始めて青銅器の容器が出現する。下は酒器の爵である。容器としての青銅器は二里頭文化で初めて出現したのである。青銅の容器を作るに外型と内型が必要で、この技術があるのは二里頭文化以降であり、夏、殷、周の大型青銅器が可能になるのである。しかし銅牌飾の路は二里頭文化で終点で、次の殷代には伝わらなかった。





 青銅の路はまだまだ続き青銅鏡の路は、新疆のハミ地区で出現して日本までしっかり伝わっている。新疆のハミ地区の青銅鏡と日本の卑弥呼の頃の青銅鏡の共通点は、円形で紐通しの摘みがあることであ。ハミ天山北路墓地から斉家文化を経て、日本まに繋がる青銅鏡の写真を並べたのは私が初めてかもしれない。青銅の路として言えば、はタクラマカン砂漠の東の端の小河遺跡やローラン遺跡で出現した青銅は日本にまで続くのである。但し、小河墓地の青銅片はここに青銅の技術があったことを示すことにはならないかもしれない。シルクロードを通じての交易の結果として青銅片があったのかもしれない。

 新疆ハミ天山北路墓地
 斉家文化から出土  
 殷王朝の殷墟
婦好の墓から
四つの青銅鏡が出土
日本出土の
三角縁獣紋鏡
日本製か中国製か
議論がある
 


 日本の銅鐸もまた夏王朝の遺跡(二里頭文化)に起源があり、 二里頭遺跡の墓からで出現して、それが日本に伝わり銅鐸になった(京都大学の岡村秀典博士の説)という。銅鈴も鋳型の外型と内型がの技術が初めて出現した二里頭文化で、初めて製造可能になった。
 二里頭遺跡から出土した
銅鈴、3700年前頃のもの
 歴博にある銅鐸・銅鐸の形は日本で誕生





中国の青銅の起源について

 本来、中国の青銅の起源については、西来説と中原説があって、劉学堂教授等はは西来説であるが、「青銅之路」という言葉で論文を書いたのは、劉学堂教授だけのようである。一方中華の文明の青銅器の起源は中国の中原であるとする説がある。しか二里頭文化の前の、中原にある文化からは殆ど青銅は出土していない。出土物の数からは圧倒的に西の方(ハミ天山北路墓地遺跡とか斉家文化とか河西回廊の文化とか)に多いのは事実である。しかし未だ西来説に異を唱える論文もある。青銅の起源は中原にあってほしいという願望に依るものかもしれない。

 銅牌飾についても劉学堂教授などは斉家文化に銅牌飾が存在すると主張しているし、斉家文化地帯の天水から出土した銅牌飾は斉家文化のものとしているが、多くの考古学者は斉家文化に銅牌飾は無いとしている。トルコ石象嵌の銅牌飾の起源についても、赫々�たる中華文明の発祥の地である二里頭文化(夏王朝)で初めて出現したと信じたいのかもしれない。



「トルコ石象嵌の銅牌飾は二里頭文化で初めて出現した説」への反論
「トルコ石象嵌の銅牌飾は斉家文化には無かった説」への反論

 トルコ石象嵌の銅牌飾は二里頭文化で始め出現したとする論文を、九州大学の宮本一夫博士に教えて頂いた。陳国梁氏の「二里頭文化嵌绿松石牌飾的来源」と言う論文である。宮本一夫博士も「トルコ石象嵌の銅牌飾は二里頭文化で初めて出現した派」であるらしい。陳国梁氏の論文によればトルコ石象嵌の銅牌飾は、その要素つまり青銅の技術、銅牌飾のテーマ(紋様)、トルコ石の加工技術、象嵌とするための粘着の技術などが、二里頭文化に集まってきて、二里頭文化で初めてトルコ石象嵌の銅牌飾が出現したとする説で、それらがどこの文化から来たかを示す示意図であるが、この図は殆んど正しくない。


 唯一事実と一致していることは、図の左上の密哈(ハミ)から鋳銅の技術が伝播したことは事実であるが、その他の技術や紋様が他の文化から伝わってきたとすることはどれも正しくない。密哈(ハミ)天山北路墓地からは鋳銅の技術だけではなく、そこではすでに銅牌飾(象嵌は無い)が出現しているのに、それについても触れてない。二里頭の銅牌飾の紋様が新砦遺跡から伝播したことを示す線もあるがこれも正しくない。下は論文中の新砦遺跡の土器の紋様が、二里頭文化の銅牌飾の紋様となったことを示す図であるが、両者は全く似ていない。


 もう一つおかしな点を指摘すると、地図の中央の上に石岇(せきこう)という地名が記されているが、ここから何が伝わったかは全く論文中に書かれていない。それで石岇(せきこう)遺跡の出土物の石の彫り物をわたしが調べてみると、二里頭文化の銅牌飾とそっくりなつり目の石刻を見つけた。石岇(せきこう)の石の彫り物の方が、よほど二里頭文化の銅牌飾と似ているのではないだろうか。しかし論文の中には二里頭文化と石岇遺跡の関係については何も書かれていない。なんで図の中に石岇の名前があるのだろう。二里頭文化の銅牌飾の紋様のルーツは石岇(せきこう)遺跡と書けば納得できるが、論文では紋様のルーツは新砦遺跡の土器の紋様だとしている。

左の石刻を縦にして拡大すると
似た紋様が表れる。石岇遺跡


 もう一つ訳の分からない矢印があるが、各地から二里頭に矢印が集まってきているのだが、一つの矢印だけが、再び天水に戻る矢印がある。この矢印は二里頭文化で完成した銅牌飾が天水に向かったとする矢印であるようである。しかし天水は斉家文化地帯であってそこから出土したものは、斉家文化のものである。二里頭文化のものより先に、斉家文化に銅牌飾はあったのである。不思議なことに陳国梁氏の論文には斉家文化の名前が全く出てこない。斉家文化で象嵌のある青銅器が出土しているので、象嵌の技術が二里頭文化に伝来した元には、斉家文化の名前があってもいいはずなのだが。

 二里頭文化の西側の隣の文化でもあるの斉家文化には、すでにトルコ石象嵌の銅牌飾は存在していた。それについては斉家文化に銅牌飾は存在するという証拠斉家文化の中心地で銅牌飾が出土していたに書いてあるが、当然陳国梁氏はそれを読んではいない。




 元々の「青銅が来た路」の話に戻るが、日本の青銅のルーツは天山北路墓地遺跡か、更には小河墓地遺跡まで遡れるのである。小河墓地遺にはコーカソイド系の少女のミイラも出土している。青銅は白人系の民族が中國に持ち込んできたのかもしれない。これは青銅の中原起源説を唱える人にとっては不都合な事実なのかもしれない。




以上





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