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斉家文化に銅牌飾は在るのだけれど、存在しないとした最初の論文

 「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」(☜をクリック)という説を私は主張しているのだが、殆んどの考古学者は斉家文化にトルコ石象嵌の銅牌飾があることを知らない。しかし、斉家文化に銅牌飾はあるとした考古学者はおられる。その学者は張天恩博士で、その論文(「天水出土の獣面紋銅牌飾とその関連問題」(中原文物2002第1期)の中に書かれているが、斉家文化の晩期と、二里頭文化の早期は時期が接していた。二つの文化の間で青銅の技術について、何らかの関係があった可能性がある。しかし残念ながら、そのことを示す証拠が無かった。天水から二里頭文化のものと似た銅牌飾が出現したことは、その問題の研究に貴重な資料を提供することになったと書かれている。天水から銅牌飾が出土したことによって、二里頭文化の銅牌飾のルーツは斉家文化である可能性についても示唆しておられる。

夏王朝、二里頭文化、斉家文化、トルコ石象嵌の銅牌飾、については
「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」を参照。

 しかし張天恩博士の論文の二年後に書かれた、山東大学の王青教授の論文「镶嵌铜牌饰的初步研究 」(文物2004第5期)、上の題名を日本語にすれば「象嵌銅牌飾の初歩的研究」であるが、初歩的と書いてはあるが、世界中に流出しているトルコ石象嵌の銅牌飾15個を取り上げて比較研究した初めての論文である。その論文の中には出土地が分かっている銅牌飾は5個あり、その中の1個は斉家文化地帯の天水出土のものなのだが、それを王青教授は二里頭文化のものとしている。他に出土地がわからない銅牌飾が、論文に10個位載っているが、出土地が分からないのに10個すべてを、二里頭文化のものとしている。つまり、斉家文化に銅牌飾は無いとしているのである。

 下の写真の右から二番目のもが天水出土のトルコ石象嵌の銅牌飾である。出土地が分かっている銅牌飾は下の5個だけ。


 王青教授の「镶嵌铜牌饰的初步研究 」の論文には引用した参考文献の中に、張天恩博士の論文もあるが、張天恩博士の主張は無視されているようである。王青教授士の「镶嵌铜牌饰的初步研究 」の発表以後。殆どの学者の論文では、天水出土のものを二里頭文化のものとしている。王青教授が天水出土のものを二里頭文化のものとした影響は大きく、九州大学の宮本一夫博士も、京都大学の岡本秀典博士も、天水出土のものを二里頭文化のものとしている。これは王青博士の論文の影響と思われる。

 天水出土のものを斉家文化のものとする学者は、張天恩博士の他に、容華博士がおられ、その論文「斉家から二里頭へ・夏文化の探索」(☜をクリック)には、『特に指摘しておきたいことは、二里頭文化のシンボル的なトルコ石象嵌の銅牌飾は斉家文化でも見られる。天水で発見されたものは斉家文化に属するものである』と書かれている。劉学堂教授・李文瑛氏の論文「史前”青銅之路”と中原文明」にも、天水出土のものは斉家文化のものだとする図が載っている。

 にもかかわらず斉家文化に銅牌飾はないとする王青教授の説が有力で、最近も台湾の故宮博物館にある未発表のトルコ石象嵌の銅牌飾についての論文を見つけたが、その銅牌飾は従来から知られている銅牌飾とはかなり異なる紋様であるにもかかわらず、二里頭文化のものとされてしまった。

 その論文は。梅翠博士の論文で「功能與源流:二里頭文化鑲松石銅牌飾研究・故宮学術季刊第三十三卷第一期(2015年秋季號)」で、その中で黃翠梅博士は王青教授が二里頭文化のものとしてる銅牌飾とは、全く似ていない凹型の紋様のものを、二里頭文化のものとして論文に載せている。それが下の図の④である、その図の中の他の銅牌飾の図は、王青博士の論文の中の図をそのまま使っているが、凹型の紋様はその中はない。凹型紋様は④の一つだけである。それなのに二里頭文化のものとしている。



台湾の故宮博物館に収蔵されている銅牌飾は偽物ではないか

 私は不都合な事実を見つけてしまった。それは黃梅翠博士の発表した銅牌飾が、王青教授が偽物と断じたものと、ソックリなのである。
王青教授がニューヨークで見たものを偽物だとした論文は紐約新見兩件镶嵌銅牌飾辯僞」(ニューヨークで見た二件の象眼銅牌飾は偽物であることを弁ずると訳せる)で、王青教授がニューヨークで見て偽物としたものと、台湾の故宮博物館蔵の銅牌飾はソックリなのである。ソックリであることは、黃梅翠博士が見た故宮博物館蔵の銅牌飾は偽物なのか? 王青教授がニューヨークで見たものは二里頭文化の本物なのか? ソックリであることを下の写真で確認できる。
山東大学の王青教授がニューヨークで見たもので
偽物だとしたもの。
台湾の故宮博物館に
収蔵されている物 

 この両者はソックリなのだから、偽物か本物か、二里頭文化ものなのか別の文化のものか、どちらか一つでなくてはならない。私の判断では両者とも偽物ではなく本物で、二里頭文化のものではないと考える。なおかつ、その作り方が二里頭のものより稚拙であることから、二里頭文化の以前の時代のものと推定できる。王青教授はニューヨークで見て偽物とした理由として、こんな模様は二里頭文化には無いと言っているくらいだから。だから故宮にあるものは二里頭文化のものではない。

 もし王青教授に黃翠梅博士の故宮博物館蔵のものを見せたら、これは偽物だというだろうか。黃翠梅博士に、王青教授が偽物とするものを見せたら、故宮博物館蔵のものをこれは二里頭文化のものではなく、偽物だというだろうか。上の両者が偽物でなく本物ではあり、二里頭文化のものではないのは確かであるが、天水出土のものが斉家文化のものであり、斉家文化に銅牌飾は存在するということになっていたならば、梅翠博士の論文の銅牌飾は斉家文化のものだということになったのではないだろうか。

 実は、北京の「禄博斎」という骨董屋のパンフレットにも、凹型の紋様の銅牌飾が斉家文化のものと明記されて載っている。このことからも梅翠博士の論文の銅牌飾は斉家文化のものだといえる。パンフレットにある凹型の紋様の銅牌飾については、下の「斉家文化に銅牌飾が存在する根拠の2」に書いてある。

斉家文化に銅牌飾は存在する根拠の1

 斉家文化に銅牌飾はあるという証拠の1は、張天恩博士の論文「天水出土の獣面紋銅牌飾とその関連問題」と天水出土の銅牌飾である。

斉家文化に銅牌飾は存在する根拠の2

 斉家文化に銅牌飾はあるという証拠の2は、北京の回族が営む「禄博斎」という骨董屋のパンフレットには銅牌飾が、斉家文化の物として載っている。「禄博斎」のパンフレットに載っている品物は殆んどが黄河上流地帯(甘粛省、青海省)から出土する、土器、石器、玉器、青銅器である。黄河上流地帯の出土物専門の骨董屋である。黄河上流地帯から出土するものを売っているのは、イスラム教徒の回族である。こう言ったものを掘り出すのもまた甘粛省、青海省の、かって馬家窯文化や斉家文化が栄えたあたり住む農民で、殆んどの姓が「馬」であるイスラム教徒の回族だと思われる。「禄博斎」の店主も「馬」である。




 パンフレットには盾形の銅牌飾が載っていて、赤丸のところに斉家文化と説明がある。英文の説明でも Qijia Culture(斉家文化)と書かれている。つまり北京の回族の骨董屋「禄博斎」は斉家文化に銅牌飾が存在することを確かに知っている。そして英文での説明までもがある。そういえばここの奥さんはこのような物は店にはないが、自宅に行けば有ると言っていた。なぜかその時は買う気にならなかったが、買って置けばよかった。但し念の為と思ってこの店のパンレットを三部貰って来た。このパンレットは斉家文化に銅牌飾があるという証拠になる。しかし考古学者はこのパンフレットの存在を知らないだろう。

 下の写真は「禄博斎」のパンフレットに載っていて斉家文化のものとしている銅牌飾と、台湾の故宮博物館に収蔵されている物黃翠梅博士の論文で二里頭文化のものとされたもの)で共に凹型の紋様がある。この紋様は王青教授の論文「象嵌銅牌飾の初歩的研究」には全く無い紋様である。この写真からも台湾の故宮博物館に収蔵されている物は斉家文化のものであると言える。
「禄博斎」のパンフレット
に載っていた銅牌飾
台湾の故宮博物館に
収蔵されている物 


斉家文化に銅牌飾は存在する根拠の3

 斉家文化に銅牌飾はあるという証拠の3は、これもまた考古学者はまだ知らないと思うのだが、斉家文化地帯のほぼど真んなかから銅牌飾が出土している中国語のネットの中国語のページ(☜クリック)に載っているのを見つけだした。見つけたのは最近(2019年)のことで、考古学者がこの事実を知ったなら、斉家文化に銅牌飾が存在することを納得すると思う。そのためには、甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷から出土した銅牌飾がありますよと、王青博士や、九州大学の宮本一夫博士や、京都大学の岡本秀典博士にお知らせしたいのだが・・・・・。下の写真が甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷から出土したもので、甘粛省臨夏回族自治州の広河県は、斉家文化地帯のほぼど真ん中で、斉家文化の命名の元ととなった斉家坪遺跡からかなり近いところである。



 トルコ石象嵌の銅牌飾が出土した場所は、斉家坪遺跡や広河県斉家文化博物館にも近く、斉家文化地帯の中心地である。下の地図に私が地名を書き込んだ。


 斉家文化地帯の中心地でトルコ石象嵌の銅牌飾は出土しているので、斉家文化に銅牌飾は存在したのである。
しかもトルコ石の象嵌もある。多くの学者の説ではトルコ石象嵌の銅牌飾は二里頭文化で初めて完成したのだと信じているらしいが、二里頭文化の象嵌ほど高度な技巧ではないにしても、斉家文化で既に象嵌の技術はあったのである。

台湾の故宮博物館に収蔵されている凹型紋様と同じ銅牌飾は他にもある

 考古学者が知ってい凹型紋様の銅牌飾は王青教授がニューヨークで見たものと
台湾の故宮博物館に収蔵されているものだけかもしれないが、他にも凹の字型紋様の銅牌飾は他にもある。
王青教授はこの凹型の字紋様は二里頭文には無いものだから偽物だとしてるが、梅翠博士が見つけた故宮博物館収蔵の銅牌飾も含めて、凹型の字紋様は全部偽物なのか
 2019年12月14日に台湾の
台北市のトレジャーアートの
オークションに出品されたもの
 我孫子市のW氏の収集品

 下の写真は2005年北京の嘉徳四季オークションに出品された物も凹型紋様である。オークション情報を載せておくが、戦国時代のものとして出品されている。落札額は日本円で14万円くらいだったらしい。トルコ石象嵌の銅牌飾について知っている人ならば、二里頭文化ものものとして出品すればもっと高額になっただろう。出品者は二里頭文化に銅牌飾が有ることを知らないのだろう。


 王青教授はその論文「紐約新見兩件銅牌飾辯僞」で、このような凹型紋様は二里頭文化には無いと否定しいる。それならこれらの凹型紋様はどこの文化のものか。先に斉家文化に銅牌飾は存在する根拠の1~3の証明した通り、斉家文化に銅牌飾が存在するのだから、凹型紋様の銅牌飾は斉家文化のものとするのが正しいと考える。

 この凹型紋様の銅牌飾が二里頭文化のもではないとするならば、斉家文化以外の可能性はないのかというと問われるかもしれない。二里頭文化以後の文化には銅牌飾は伝わっていない。二里頭文化周辺とかそれ以前の文化では、青銅器が一番多く出土する文化は斉家文化である。他の文化では出土していてもほんのわずかである。だから他の文化からこれからも銅牌飾が出土する可能性はほとんどない。

銅牌飾が斉家文化にあるという証拠は玉器にも同じ型の牌飾が在ることでも分かる

 下の写真はいずれも私の収集品であるが、トルコ石象嵌のある盾形または草鞋型の形状のものが、青銅器にも玉器にもある。同じモチーフの紋様(人面紋と獣面紋)が青銅器にも玉器にも出現する文化は斉家文化以外にないのでは? と考古学者に聞いてみても、考古学者はこのよう物は見たことがないと答えるかもしれない。しかし見たことが無いにしても、同じモチーフの紋様が青銅器にも玉器にも出現する文化
は斉家文化以外にはないと考えられる。斉家文化ほど玉器を作り出したほかの文化にはない。そして人面紋と獣面紋のモチーフは二里頭文化にまで連続している。
原始的な人面紋の玉器  同じ紋様の青銅器  

 人面紋の玉器  人面紋の青銅器

 獣面紋の玉器 獣面紋の青銅器

 つまり斉家文化にトルコ石象嵌の銅牌飾は斉家文化に存在し、二里頭文化の銅牌飾のルーツは斉家文化にあることを示している。なお次の写真で二里頭文化の銅牌飾のルーツは斉家文化にあることをより明確に示しいる。

私の収集品は斉家文化のものであり、二里頭文化の銅牌飾のルーツにあたるものである

 下のものは私の収集品で、二里頭文化のものと似ていることを下の写真で示すが、上の列は人面紋で、下の列は獣面紋である。このように並べてみると、私の収集品から二里頭文化の銅牌飾へと、象嵌の技術と、紋様(人面と獣面)が進化していく様子が明確に分かる。私の収集品から進化し二里頭文化の銅牌飾のとなったことがわかる。しかし私の収集品は、二里頭文化のものと比べてみれば、明らかに象嵌の技術と、紋様)の点で初歩的、原始的なものがある。
私の収集品で人面紋の銅牌飾 二里頭文化の銅牌飾 


  私の収集品で獣面紋の銅牌飾 二里頭文化の銅牌飾 

 多くの考古学者は斉家文化には銅牌飾には無いとしているが、上の私の収集品は二里頭文化のものでなければ、どの文化のものなのか。しかし先に斉家文化に銅牌飾は存在する根拠の1~3で証明した通り、私の収集品は斉家文化以外ではありえない。私の収集品は斉家文化のものである。同時に二里頭文化のトルコ石象嵌の銅牌飾のルーツは斉家文化でああることを示している。


骨董屋、または売人は、売っている銅牌飾が斉家文化のものだと知っている。

 私の収集品は北京の骨董市場で買ったものなのだが、骨董屋または売人は斉家文化のものだと言って売っていた。しかし骨董屋がそれを斉家文化のものだと言っても、考古学者からすれば、売人の話など証拠にはならないと言われるかもしれないが、記録しておいたことなので、以下に下の銅牌飾についての話を書いておく。下の写真のものは2009年の10月の国慶節の時、北京の骨董市場・潘家園で見つけて写真に撮ったものである。北この時はまだ土がついていた。実際に買ったのは四か月ぐらい後のことである。


 このものを持っていた人物は売人(売人とした理由は店を持っていなかったから)で、その売人のお父さんが30年くらい前に、掘り出した人から40枚くらいも購入したもので、その中で状態の良いものは4、5枚しか無く、もっとも状態が良いものを手元に残しておいたのだとか。出土地をはっきり聞き出すことはできなかったが、甘粛省の臨夏市の周辺の東郷県龍泉鎮とか韓集県とか広河県斉家坪とかの名前を挙げていた。斉家坪の名前はあまりにも有名で、斉家坪遺跡とはそこの地名によって斉家文化の名前が付けられた遺跡であるので、そこから出土したものとはにわかには信じがたいが、斉家文化地帯から出土したものであることは確かなようである。その売人は斉家文化の遺跡には祭壇があるとも言っていた。謝端琚博士の著書「甘青地区史前考古」のp128には斉家文化の遺跡の中に、円形に小石で囲まれた中に動物の骨のある”石閻圏”が在ったと書かれているから、売人は斉家文化の遺跡には知識があるようだった。

 他の私の収集品の殆んどは、北京の骨董市で購入したもので、甘粛省出身のイスラム教の少数民族・回族の骨董屋又は売人から購入したものである。不思議なことに彼らの姓は殆んどが「馬」でマーと呼び、マホメットのマーからきているようである。甘粛省出身の回族が住んでいるところは、5000年前~3500年前には馬家窯文化とか斉家文化とか辛店文化、寺窪文化があった黄河の上流地帯で、それ等の文化の土器、石器、骨器、玉器、青銅器が沢山出土する。特に土器は各々の文化年代の彩文のある土器が大量に出土する。甘粛省の黄河上流地帯から、回族の農民が地下に埋まっているものを探し当て掘り出し、それを同じ回族である骨董屋、または売人(多分姓は馬)が北京で売っているのである。彼らはそれらの文化遺産が出土する地に住んでいるだけに、探し当てたものがどの文化のに属するものなのか知っているのである

 下の写真は人面紋の玉器で、2008年12月13日に、北京の程田古玩城という骨董屋街で購入した。その時「甘粛省臨夏市南龙山」で出土したものだと言っていたのでメモしておいた。あとで中国語のネットで検索してみると確かに临夏市には南龙山森林公園という場所があった。臨夏市は斉家文化が栄えた場所であり、そこからこのようなトルコ石象嵌の玉器の牌飾が出土しているのである。骨董屋は斉家文化のものだと知っているのである。



 なお上の斉家文化の玉器は、二里頭文化の人面紋の銅牌飾に繋がる譜系の、最初のもののように思える。しかし斉家文化には銅牌飾は無いと信じている考古学者に見せたら、斉家文化と二里頭文化の繋がりを信じて貰えるだろうか。
私の収集品で玉器  私の収集品で人面紋の銅牌飾 二里頭文化の銅牌飾 



以上



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