トップ アイコン 斉家文化の中心地で銅牌飾が出土していた。
だから夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある 
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 私は最近(2019年9月)、中国の考古学上の重要な証拠となるものを中国語のネット上から発見した。それは斉家文化にトルコ石象嵌の銅牌飾があるという明確な証拠である。それをこの中国語のページ(☜クリック)から見つけ出した。それは中国の甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷から出土したものである。見つけたものは斉家文化のトルコ石象嵌の銅牌飾の写真であるが、下のページに書かれた説明に依れば「阿力麻土郷出土の斉家文化の銅牌飾は、二里頭文化のものより早期のもので、その芸術、歴史、考古学価値、夏文化の研究において重要な意義があるものである」と書かれている。このものは斉家文化のものであると同時に、夏王朝のものと重要な関係があると書かれている。このことは夏王朝のトルコ石象嵌の銅牌飾のルーツが斉家文化にあることを明確に示している。甘粛省臨夏回族自治州の広河県は斉家文化地帯のほぼど真ん中である。
斉家文化の銅牌飾

 これが何故考古学上の重要な証拠となるものかというと、多くの考古学者が無いとしている斉家文化に、トルコ石象嵌の銅牌飾が存在する写真(証拠)を見たからである。トルコ石象嵌のある銅牌飾は全世界でも考古学者に15個位しか知られていなくて、出土地が分っているものが5個しかない。その内3個は二里頭遺跡(夏王朝の遺跡)から出土したもので、これは二里頭文化に属するもので夏王朝の遺物である。他に海外に流出したものが10個あるが、それ等は恐らく盗掘品で出土地が分らないにもかかわらず二里頭文化のものとされている。だから斉家文化にはトルコ石象嵌の銅牌飾は無いことになる。しかし斉家文化にもトルコ石象嵌の銅牌飾は存在するのである。トルコ石象嵌の盾形銅牌飾が作られたのは二里頭文化と斉家文化の終わり頃で、今から3600年前の頃のことであるが、斉家文化に先に存在していたと考えられる。二里頭文化(夏王朝)のものは華麗な工芸品で国宝級なものであるが、今回見つけた斉家文化のものは工芸的にも、紋様の点でも二里頭文化のものより初期のものであることを示している。このことは斉家文化のものが二里頭文化のもののルーツであることを示している。なお夏王朝は中国中原の文化で、一方の斉家文化はシルクロードの入口あたりの甘粛省青海省の文化で、両者はかなり離れている。それでも斉家文化のトルコ石象嵌の銅牌飾が二里頭文化(夏王朝の)に伝播したのである。二つの文化の場所と距離などは下にある地図を見ていただきたい。
 甘粛省の広河県阿力麻土郷
出土のトルコ石象嵌の
銅牌飾
斉家文化
地帯
   二里頭文化(夏王朝)の
遺跡から出土したものの一つ
二里頭文化のトルコ石象嵌の
銅牌飾
 
広河県阿力麻土郷の銅牌飾 ☛☛☛ 
斉家文化から

二里頭文化へ

伝播した

 なお陳国梁氏の「二里頭文化嵌緑松石牌飾的来源」(☜クリック)によれば、斉家文化には銅牌飾は無いということになっている。その論文によれば、二里頭文化に鋳造技術、銅牌飾の外形、紋様の主題(テーマ、獣面紋)、トルコ石の象嵌などの構成要素が二里頭文化に結集して、初めて二里頭文化で盾形銅牌飾が出現したという説である。つまり斉家文化にはトルコ石の象嵌のある銅牌飾は無かったことになる。しかし斉家文化に銅牌飾はあったのである。そして二里頭文化に伝播した。二里頭文化と斉家文化の位置は、下の地図の通りで900㎞位離れているが、それでもトルコ石象嵌の銅牌飾はに斉家文化から二里頭文化に伝播したのである。


 下も私が作った地図であるが、出土場所の甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷の、広河県には斉家文化の有名な斉家坪遺跡があり、斉家坪遺跡と阿力麻土郷とは20~30kmの距離で同じく広河県にある。広河県には広河斉家文化博物館(ここにも銅牌飾が展示されている)もある。斉家坪史跡は斉家文化を発見者したアンダーソン博士が発見した遺跡で、斉家文化の命名の元になった。


 甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷とは下の写真のような所らしい。Google Earhtの地図上の写真で場所を特定した。ここらあたりのどこからかトルコ石象眼の銅牌飾が出土したと思われるが、今は何の痕跡も残っていないようである。遺跡が有るとすれば河岸段丘の上かもしれない。斉家文化の発見者のアンダーソン博士は遺跡は段丘の上に多いとたびたび書いている(アンダーソン著「黄土高原」日本語訳あり、昭和17年12月初版発行)。ここの住民の殆んどが少数民族の東郷族か回族でイスラム教徒である。清真寺と書かれているところはイスラム寺院で、それがあちこちに見える。このイスラム寺院はおそらく高い尖塔を持つモスクである。私はここには行ったことはないが、甘粛省には何度も行ったことがあり甘粛省臨夏市にも行ったことがある。そのあたりでは高い尖塔を持つモスクをあちこちで見た。


 広河県阿力麻土郷出土の盾形銅牌飾を見つけ出したが、その中国語のページには出土物の説明が書かれていた。その画面をコピーして下に載せたが、その説明にはハッキリとこのものは斉家文化のトルコ石象嵌の銅牌飾であると書かれている。更に説明によれば、「これは二里頭文化より早期のもので、工芸的にも歴史的にも考古学的にも価値があることは言うまでもなく、夏王朝の文化の研究にとっても重要な価値があるものである」と説明がある。二里頭文化、夏王朝との関係についても記述がある。動物紋であるとも書かれている。二里頭遺跡出土の銅牌飾にも獣面紋がある。
 
 二里頭文化のものと非常によく似ている銅牌飾が、斉家文化の中心地、斉家坪遺跡の近くから出土していることは、斉家文化にトルコ石象嵌の銅牌飾が存在するということであり、私の説「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説を証明してくれている証拠である。

 実は広河県阿力麻土郷の近くに広河県斉家文化博物館があって、そこにはトルコ石の象嵌の無い銅牌飾が陳列されている。それとは別に方形に加工されたトルコ石の切片も展示されている。この二つは近くの斉家坪遺跡から出土したものである。
斉家文化の銅牌飾
広河県斉家文化博物館の展示

 トルコ石の切片が出土していることは、このあたりでトルコ石象嵌の銅牌飾が作られたことを示している、一方トルコ石象嵌の無い銅牌飾は、スケルトン状の銅牌飾が新疆のハミ天山北路墓地遺跡から、斉家文化坪遺跡を経由して、更に長江文化の三星堆遺跡に伝わった経路を示している。二つとも斉家文化に銅牌飾が存在していたことを示しているのである。
 新疆の
ハミ天山北路墓地遺跡
甘粛省の
斉家坪遺跡
 四川省
三星堆遺跡

 実はもう一個斉家文化で出土したものがある。それは斉家文化地帯の甘粛省天水から出土したものである。
これが北京の展覧会(シルクの道ー甘粛文物精華展、2019年5月16日—7月21日、中国国家博物館)に出展されたときの説明では、ハッキリと斉家文化の物と書かれている。他にも中国の学者で張天恩博士や劉学堂教授や易華博士は、天水出土の物は斉家文化のものだと書いておられる。

甘粛省天水出土のトルコ石象嵌の銅牌飾、
天水出土の銅牌飾




 その華易博士の斉家文化発見90周年の論文「正本清源说齐家——纪念齐家文化发现九十周年2016年08月23日 10:17 来源:《民族日报》 作者:易华 唐士乾、にも次のような記述がある。「特に指摘しておきたいのは二里頭文化の象徴的なトルコ石象嵌は、斉家文化にも見られる。甘粛省天水で見つかった銅牌飾は斉家文化のものである。(中略)だから二里頭文化三、四期の華麗な象嵌装飾は斉家文化に関係がある」と書いておられる。天水出土のものは斉家文化のものである。

 陳国梁氏の論文「二里頭文化嵌緑松石牌飾的来源では、斉家文化にトルコ石象嵌の盾形銅牌飾が無いとしていて、二里頭文化で鋳造技術、紋様(テーマ)、トルコ石の象嵌などの構成要素が各地から二里頭文化に地帯に集まってきて、トルコ石象嵌の盾形銅牌飾が、初めて二里頭文化で出現したという説であるしかし、例えば紋様(テーマ)は新砦期文化から伝わったものだとしている。しかし新砦遺跡出土の土器の紋様と全く似ていいない。吊り目である辺りだけは似ているかもしれない。
左は新砦遺跡から出土した土器の紋様。右は二里頭遺跡の出土品。

 新砦遺跡から出土した土器の紋様より、もっと二里頭文化の銅牌飾と似た石刻があった。中国の学者ではない方の「最新出土文物证明西北齐家文化或为夏朝文化的源头」に載っていた写真であるが、下の写真の左が石岇遺跡から出土の石刻である。中央の二里頭遺跡出の銅牌飾と紋様が似ている、新砦遺跡の土器の紋様よりよく似ている。右は甘粛省出土の銅牌飾で斉家文化のものである。これを見ると里頭遺跡出の銅牌飾は斉家文化から伝わったと考えてもおかしくない。二里頭文化のトルコ石象嵌の銅牌飾は斉家文化から伝わったことを良く示しているとも書かれている。そして石岇遺跡は陝西省の北部にある遺跡なのだが、石岇遺跡は斉家文化と土器、青銅器、玉器などの文化が似ており、斉家文化が北へ拡張し発見した結果だと書かれている。また、石岇遺跡から神獣紋の石刻が出土したことは、斉家と石岇が二里頭の銅牌飾の源流だとも書かれていて、中国の青銅の技術は北西地区が起源であり、トルコ石象嵌の銅牌飾が別の地方から二里頭文化に来たとするのはあり得ないとも書かれている。


 更に前出の文中には、中華文明の起源については、いわゆる「中央平原の起源説」が常に支配的であり、黄河の中流・下流に位置する中央平原地域が中国文明の起源であるとの議論が続いている。しかし、考古学の発展に伴い、黄河の上流の北西部が中国文明の真の起源である可能性があることを示す発掘された文化遺物がますます増えている。したがってますます多くの学者が、中国文明の起源について北西地域は重要な地域であると主張している。

 ここ二登場する石岇遺跡についてだが、「石峁遗址:中国北方早期国家的都城」というページを見つけた。これによると現地の人が「皇城台」という天守閣みたいなところを中心として内城、外城の三重の城壁に囲まれた宮殿建築が石岇遺跡だそうだが、面積は400万平方米もあり、外城の東門巨大なもので、中国の先史時代では「中華第一の門」とも言われると書かれている。なお出土物には青銅の環首刀の石の鋳型なども出ている。二里頭遺跡の中原の前の遺跡で、これほど大き宮殿とも思われる遺跡は無い。私の考えでは石岇遺跡の存在は中華文明の「中原の起源説」や青銅の中原起源説を覆すものだと思う。改めて書いておくと「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」のである。




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