トップ アイコン 夏王朝の銅牌飾の本当のルーツは天山北路墓地にあった  トップ アイコン

 私は夏王朝の「銅牌飾」のルーツが斉家文化にあることを随分前に発見したのだが、最近(2018年)になって斉家文化のよりもっと古いルーツが、シルクロードの新疆ハミ天山北路墓地にあるのを発見した。下の写真のハミ天山北路墓地出土のスケルトン状のものは 中国語のぺージ【絲綢之路】齊家銅器西承東接(☜クリック)に載っていた。盾形の銅牌飾は《国家宝藏》という 中国中央テレビ局の国宝級の文物を紹介するページ(☜クリック)に載っていた。夏王朝とか銅牌飾については盾形銅牌飾の研究を参照。
ハミ天山北路墓地遺跡から出土した銅牌飾
 スケルトン状のもの 盾形のもの 
ハミ天山北路墓地出土 ハミ天山北路墓地出土の銅牌

 「銅牌飾」はハミ天山北路墓地遺跡で出現し二里頭文化の夏王朝へと伝播したのである。北九州大学の宮本一夫博士に紹介していただいた論文、 陳国梁2017「二里頭文化嵌緑松石牌飾的来源」(論文のタイトルは「二里頭文化のトルコ石象嵌の牌飾のルーツについて」と訳せる)には銅牌飾の伝播のルートを示す図が載っているが、それが下の図で、図の左上に「哈蜜」の文字があり、銅牌飾の青銅枠部分の起源はハミ天山北路墓地遺跡であることは確からしい。二里頭文化の夏王朝の銅牌飾の出発点はハミ天山北路墓地遺跡なのである。


 しかし考古学者に知られていて出土地がわかっている銅牌飾を西から東に並べてみれば、銅牌飾の伝播のルート上には斉家文化があることは明確であるはずなのだが。
 天山北路文化 斉家文化  二里頭文化 
ハミ天山北路墓地遺跡から出土
斉家坪遺跡
から出土
甘粛省天水
から出土

 
夏王朝の墓地から三個だけ
出土しているが、その内の二個
 
ハミ天山北路墓地出土
スケルトン状
ハミ天山北路墓地出土の銅牌
盾形
天水出土の盾形銅牌飾 人面紋  獣面紋

 更にそれらのものを、地図上に並べてみれば、銅牌飾はハミ天山北路墓地遺跡で生まれ、斉家文化でトルコ石象嵌が加わり二里頭文化に伝播したことがわかるはずでる。もう一つの伝播のルートは長江文化の三星堆遺跡で、そこからも銅牌飾が出土している。スケルトン状の銅牌飾はハミ⇒斉家文化⇒三星堆遺跡にだけ伝播し、二里頭文化にはスケルトン状のものは伝播しなかった。伝播の終点は二里頭文化の二里頭遺跡と、長江文化の三星堆遺跡でその先には伝播しなかった。


 しかし陳国梁氏の論文には斉家文化については全く記述がない。陳国梁氏の論文の説は、二里頭文化に青銅の技術や、紋様や、象嵌の技術が集まってきて、初めてトルコ石の象嵌のある銅牌飾が誕生したというのである。そして二里頭文化で誕生したトルコ石の象嵌のある銅牌飾は斉家文化地帯の天水に運ばれ、さらにそこから三星堆遺跡に伝播したことを示す図である。陳国梁氏の論文の図はトルコ石象嵌のある銅牌飾は、斉家文化ではなく二里頭文化でか出来上がったという説を示している。

 ではなぜ斉家文化地帯で出土している銅牌飾を二里頭文化のものとしているかなのだが、二里頭文化のものが天水にもたらされたとしている。下は甘粛省天水出土のトルコ石象嵌のある銅牌飾。


 天水出土の銅牌飾については斉家文化のものとする意見が無いわけではない。例えば易華博士はその論文「斉家から二里頭へ・夏文化の探索」(☜をクリック)には『特に指摘しておきたいことは、二里頭文化のシンボル的なトルコ石象嵌の銅牌飾は斉家文化でも見られる。天水で発見されたものは斉家文化に属するものである』と書かれている。劉学堂教授・李文瑛氏の論文「史前”青銅之路”と中原文明」(☜をクリック)には天水出土のものは斉家文化のものだとする図が載っている。しかしこの意見は少数意見で、九州大学の宮本一夫博士や京都大学の岡村典夫博士も天水出土のものを二里頭文化のものとしている。

 もう一つ斉家文化地地帯の斉家坪遺跡から出土した銅牌飾(下の写真の左のもの)があるが、これは広河県斉家文化博物館に展示されていて明らかに斉家文化のものであるのに、陳国梁氏の論文では二里頭文化のものしている。陳国梁氏の論文では斉家文化を完全無視でなのである。ここの展示で重要な意味があるのは、象嵌の為のトルコ石が小さに方形に加工さたものが一緒に展示されていることである。しかしここにこんな展示があることは多くの考古学者は知らないのはたしからしい。


 地図の上に載せた銅牌飾の他に、学者に知られている銅牌飾は10個ぐらいあるが、それらは出土場所は明らかではない。しかしそのすべてを多くの考古学者は二里頭異文化のものとしている。トルコ石象嵌の銅牌飾は斉家文化にはないとしているから、出土地が分からなくても二里頭文化のものとしているのである。

 更に私の収集品の斉家文化の銅牌飾の獣面紋を見てみれば、二里頭文化の銅牌飾と紋様が非常によく似ている。二里頭文化の銅牌飾の紋様のルーツは斉家文化にあるのである。しかし考古学者達は私の収集品については全く知らない。下は私の収集品で、斉家文化の獣面紋の銅牌飾

 陳国梁氏の論文に話を戻せば、二里頭文化に青銅の技術や、紋様や、象嵌の技術が集まってきて、初めてトルコ石の象嵌のある銅牌飾が誕生したという説であるが、この説は不自然である。例えば紋様は新砦遺跡から出土した土器の紋様が二里頭文化の銅牌飾ののルーツであるとするが、あまりにも似ていない。無理がある。
新砦遺跡から
出土した土器の
紋様
二里頭文化の銅牌飾の
紋様

 象嵌の技術についても二里頭文化に集まってきて銅牌飾ができたのではなく、既に斉家文化で完成していたのである。中国のアモイ(厦門)の上古文化芸術館の展示には、斉家文化でトルコ石の象嵌の技術が完成したことを示す展示がある。ここの展示には玉器だけではなく、斉家文化の銅牌飾も展示されている。ここの展示についてはほとんどの考古学者は知らない。


 ハミ天山北路墓地遺跡については、ここから青銅鏡も出土していて、その青銅鏡が円形であること、中央に紐通しの摘みがあることなど、そのままの形が日本にまで伝わている。青銅鏡はハミ天山北路墓地で出現して日本にまで伝来した(☜クリック)。下はハミ天山北路墓地遺跡から出土した青銅鏡
ハミ天山北路墓地出土の太陽紋青銅鏡

 西アジアで発祥した青銅の技術は西から中国へ伝わったらしいのだが、ハミ天山北路墓地遺跡よりさらに西の小河墓地の遺跡からは、僅かな青銅が出土しているらしい。小河墓地は「さまよえる湖」のロプノールから西に約百キロのタクラマカン砂漠の中にある。ここから青銅が出土しているのだが小さい飾り物だけのようで、大きな銅牌飾や鏡のようなものは無い。だからハミ天山北路墓地遺跡が本当の銅牌飾や青銅鏡の出発でであるらしい。なお
小河墓地遺跡では白人系の少女のミイラが発掘された所である。小河墓地遺跡については「絲綢之路」前面是「青銅之路」,4000年前就有歐洲人來中國生活(☜クリック)というページにあるが、この意味は「絹の道の前に青銅の路があった。4000年前にヨーロッパ人が来て中国で生活した」 である。下は小河墓地遺跡と白人系の少女のミイラの写真。
小河墓地遺跡

 ハミ天山北路墓地を通った文化には彩陶(彩陶とは彩紋のある土器のこと)もあった。しかし青銅が通った道とは逆方向の、斉家文化⇒四坝文化⇒ハミ天山北路墓地のルートを彩陶之路というらしい。青銅と彩陶はハミ天山北路墓地遺跡で出会ったと劉学堂氏の論文に書かれている。。下はハミ天山北路墓地出土の彩陶。
ハミ天山北路墓地出土の彩陶

 なおミ天山北路墓地と斉家文化地帯の間を河西回廊というが、そこに四坝文化がありその四坝文化遺跡(下の銅牌飾の伝播のルートの図を参照)から、トルコ石を貼り付けてた土器が出土している


 四坝文化は「青銅之路」の斉家文化の上流にある。だからもしかしたらこれがトルコ石象嵌のルーツかもしれない。この土器の取っ手にまでトルコ石が張り付けてある。これに似たものを北京の骨董市場で見たことが、今にして思えばそれを買っておけばよかった

 哈密盆地是彩陶之路上的重要驿站(☜クリック)を読むと、彩陶之路は天山山脈にそって西に向かい、西暦0年前後、ハザクスタンの巴尔喀什湖(どこか??)の東岸で消えてしまったのだとか。論文の表題の意味はハミ盆地は彩陶の路の重要な駅であったという意味である。シルクロードには絹の路の前に、青銅の路もあり彩陶の路もあったらしい。勿論ここには玉の路もあった。


 以上が夏王朝の銅牌飾の本当のルーツは天山北路墓地遺跡であったことを示す根拠であり、斉家文化でトルコ石象嵌の銅牌飾が完成していたことを示す根拠でもある。考古学者が無いとしている斉家文化のトルコ石象嵌の銅牌飾はあったのである。

以上






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