トップ アイコン 卑弥呼の青銅鏡のルーツはシルクロードにあることを発見   トップ アイコン


 卑弥呼が中国の魏から貰ったという青銅鏡のルーツはシルクロードの哈密(ハミ)天山北路墓地遺跡にあることを発見した。そしてこのことは私の新発見だと思う。新発見であるかどうかは、中国についての考古学者である京都大学の岡本秀典博士や九州大学の宮本一夫博士に聞いてみれば分かると思う。多分両博士ともシルクロードのハミ遺跡で青銅鏡が出土しているのをご存じないとおもうから。両博士ともそのことをご存じないなら、私の新発見である。岡本秀典博士は「夏王朝・中国文明の原像」などの著書があり、宮本一夫博士には「神話から歴史へ(神話時代夏王朝)」の著書がある。

 初めに何故発見できたかについて書いておくと、中国語の検索サイト「百度」を使ったことと、画像での検索も使ったことである。発見できたのは偶然でもあるが、青銅器の来た道を中国語の論文等から調べていた時のことだから、全くの偶然ではない。もともと私はインターネットで盾形銅牌飾について検索していて、シルクロードの新疆にあるハミ天山北路墓地遺跡から、青銅鏡が出土しているのを見つけた。私が盾形銅牌飾について相当調べた事実は「盾形銅牌飾」とパソコンに入力して検索して貰えれば分る。検索して出てきた盾形銅牌飾の画像の大部分は、私が自分のホームページに載せたものである。つまり卑弥呼が貰った青銅鏡のルーツの発見は、盾形銅牌飾研究の副産物だった。夏王朝の遺跡から出土した盾形銅牌飾のルーツはどこかにを調べていてハミ天山北路墓地遺跡にたどり着いたのである。

 中国語のネットを検索していくと「深埋地下的神镜之谜:镜从何处而来?」(☜クリック)という劉学堂氏の論文が見つかり、この意味は「地下深く埋まった神鏡の謎:鏡はどこから来たか?」であり、これを読むとシルクロードの哈密(ハミ)天山北路墓地遺跡から青銅鏡が100個以上も出土していることが分かった。ハミ天山北路墓地は新疆の天山北路の哈密(ハミ)市にある。そして更に分かったことは、ハミ天山北路墓地は円形の青銅鏡の出発点でもあり、ハミ天山北路墓地より西では円形の青銅鏡は出土していないようであった。

 青銅の技術は西アジアにかなり昔からにあった。例えばイランのスーサと言うところから青銅鏡が出土している。しかしそれは柄が付いたものであって円形ではなかったらしい。卑弥呼が貰った鏡の特徴は、円形で鏡の裏面中央に突起があり、そこに紐通しの穴があることである。その鏡はその紋様から三角縁神獣鏡と言われている。



 一方ハミ天山北路墓地から出土した鏡は円形で、鏡の裏面の中央に紐通しの穴のある摘まみがある。そして円形で紐通しの穴を持った青銅鏡はハミ天山北路墓地遺跡で初めて出現した。劉学堂氏の論文によれば、ハミ天山北路墓地から出土した青銅の装飾品には大小さまざまで、その形が100種類位あり、大方は方形か円形であるが、丸い青銅の飾り物の一部がだんだん大きくなって、円形の鏡に変わり、紐通しの穴も鋳込まれたと書かれている。正にシルクロードにあるハミ天山北路墓地が、円形で紐通しの穴のある青銅鏡の誕生の地であることは確からしい。画像を見れば両者とも円形で紐通しの出っ張りがあることが確認できる。




ハミ遺跡からいろいろの青銅器が出土しているが、青銅鏡は100個以上出土している。
下の図の中にも紐通しの突起がある鏡が4個は確認できる。

 
 ハミ遺跡と日本の間には、まだほかにも青銅鏡が出土する遺跡が存在する。斉家文化地帯では斉家坪遺跡と、他の遺跡からと合計二個の鏡が出土している、中国中原に至ると安陽の殷墟の婦好(殷第23代王武丁の妻の一人で、政治にかかわったらしい)の墓からは四つの鏡が出土している。殷墟からは合計7個の鏡が出土している。斉家文化の二つの青銅鏡と、殷墟の婦好墓からの四つの鏡は、画像で確認できるがいずれも円形で紐通しの穴のある青銅鏡である。

斉家文化から出土した二個の青銅鏡


殷墟の婦好の墓からの四つの青銅鏡



 円形で紐通しの穴のあることは、ハミ遺跡の鏡と、三角縁神獣鏡(卑弥呼が貰ったと言われている鏡)とで共通している。つまりこのことは青銅鏡はシルクロードンのハミ天山北路墓地で生まれ、斉家文化へ、そして殷王朝のあった中国の中原を経て、三国時代の魏から卑弥呼に100枚もの鏡が送られたを示している。

 但し卑弥呼が貰った鏡は中国で作られたものではなく日本製ではないかとの説もある。日本製であっとしても、日本製の青銅鏡のルーツはシルクロードのハミ天山北路墓地であることが分かる。

 青銅の道はシルクロードから日本へ続いているのだが、時代を追ってみると、夏・殷・周の王朝時代は大型の容器となる青銅器が沢山作らたにも係わらず、青銅鏡はほとんど出ていない。青銅器は夏王朝には全く出土していない。殷王朝は殷墟からの7個だけで、周王朝の時に出土例があるが、ほんの僅かであると書かれている。やはり戦国時代になり、大量に青銅鏡が作られるようになり、ようやく日本にも到来したのだと考えらる。

 「卑弥呼が貰った青銅鏡のルーツはシルクロードのハミ天山北路墓地にあること」は本当に新発見なのか? 今までに卑弥呼の鏡とハミ遺跡出土の鏡を並べて書いたり、話した人は、いないのだろうか。劉学堂氏の論文には、青銅鏡が通って中国の中原に至る道は、青銅の来た道でもあると書かれているが、最近(2018年10月2日)の中国社会科学院のネットの記事の「解読銅鏡中の中国の歴史と文化」(☜クリック)を見てみても、中国の最初の青銅鏡は斉家文化の青銅鏡としている。つまりこの記事の中国人の著者は、新疆のハミ天山北路墓地の青銅鏡のことを知らないらしい。中国人の考古学者でも知らないなら、前出のお二人の日本人考古学者も知らない可能性は高い。ならば卑弥呼の鏡とハミ遺跡出土の鏡を並べて書いたのは私が初めてである可能性が高い。ハミ遺跡から青銅鏡が出土しているのを知っているのは劉学堂氏ほか数人に過ぎないのではなかろうか。劉学堂氏はこのことを知っている人が少ないから前出の論文を書いたのかもしれない。なお劉学堂氏は新疆師範大学の先生で新疆やシルクロードの考古に詳しい。ハミ天山北路墓地は中国ではあるが、中国の中原から遠いのである。(中国の中原とは夏殷商の王朝があった辺り)

 ハミ天山北路墓地発祥の青銅鏡が、海を越えて日本に伝わったのは、距離的にも驚くべきことであるが、時間的にも遠かったのである。中国語のネットで調べてみると、ハミ天山北路墓地の時代は、一番新しい時代では紀元前13世紀とあるから、卑弥呼の鏡とは1600年ぐらいの時代差があることになる。ハミ天山北路墓地で発祥した円い青銅鏡が日本に到達するのに少なくとも1600年もかかったことになる。

 尚、私が研究している盾形銅牌飾のルーツもハミ天山北路墓地にあった。そのルーツと言える青銅器は、スケルトン状の銅牌飾で、下の写真である。

 これがハミ遺跡から河西回廊を経て斉家文化に伝わり、そこから南下して長江文化の三堆遺跡に伝わった。斉家文化から東に伝わったものは、夏王朝二里頭遺跡の盾形銅牌飾となった。


 夏王朝の遺跡の盾形銅牌飾とハミ天山北路墓地の牌飾との関係を説明するのは、その間に斉家文化の盾形銅牌飾があり複雑なので、「夏王朝の盾形銅牌飾のルーツは斉家文化なのだが、その源はシルクロードの新疆天山北路のハミ遺跡にあった」(☜クリック)を読んで頂きたい)。


終わり





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