夏王朝の墓から出土した銅牌飾のルーツは、夏王朝があった河南省からはるか離れた、
東の甘粛省の斉家文化にあったのである。それが私の新発見だと言える理由は、
考古学者達は斉家文化から銅牌飾が出土することを知らない。
しかし私は斉家文化にも銅牌飾が存在することを知っているからである。
そこで考古学者達が斉家文化に銅牌飾があることを本当に知らないことを証明したい。
さらに私が手に入れた銅牌飾は、考古学者達が知らない斉家文化の銅牌飾であることを証明したい。
この二つを証明すれば私の新発見であることが証明できると思う。

その前に銅牌飾について説明しておくと銅牌飾とはトルコ石で象嵌された高さ14㎝位の
盾形の青銅器である。中国の夏王朝の墓(河南省・二里頭文化地帯)から
出土したことは知られている。

右側は岡村秀典博士の著書の表紙に載っていた夏王朝の貴族の墓から出土した
銅牌飾である。これは中国の国宝級の青銅器であって、東京国立博物館の展覧会で
展示され、私は本物を見たことがある。左側が私が集めた斉家文化の銅牌飾である。

 簡単に言えば、夏王朝の銅牌飾と斉家文化の銅牌飾はよく似ている。だから夏王朝の
銅牌飾のルーツは斉家文化にあると言えるのである。
しかし新発見だと言うからには、考古学者は斉家文化に銅牌飾があることを知らないこと、
そして次に私が手に入れた銅牌飾は斉家文化の物であることを証明しなければならない。

銅牌飾の存在を知っているのは誰か
  夏王朝(二里頭文化  斉家文化 
 夏王朝の墓から三個の銅牌飾が
出土したことを知っている
 斉家文化にも銅牌飾があり
それは夏王朝のものと似ている
ことを知っている
考古学者 銅牌飾は全世界で16個しか
知られていないと思っている。それは
二里頭文化と長江文化の物である
 斉家文化の
銅牌飾の存在を知らない
回族の骨董屋  多分知らない  斉家文化に銅牌飾が存在する
ことをよく知っている

註記;夏王朝は二里頭文化に属し、その晩期に出現した。

 ここで何故、回族の骨董屋が出てくるかと言うと、北京の回族の骨董屋は斉家文化の盗掘品を
売っているのである。そしてそれを私が買って新発見に繋がったのである。
回族の骨董屋が売っているものが盗掘品であることなどについては別のところで書いたので

読んでいただきたい。夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化であること発見した経緯についても、
別のところに書いたので読んでいただきたい。下をクリック↓

   

とにかく夏王朝とか斉家文化と銅牌飾とか、聞きなれない言葉ばかりなのでここに書いた小文だけでは
なかなか理解してもらえないと思うので、是非上の文章を読んでいただきたい。


ここでは考古学者は斉家文化に銅牌飾があることを知らないことについて、
そして私が手に入れた銅牌飾は斉家文化の物であることだけについて証明してみたい。




  まず考古学者は斉家文化に銅牌飾があることを本当に知らないのであるが、
そのことを証明してみたい。私は夏王朝の銅牌飾の研究の第一人者の王青教授(山東大学)の論文を
探し出した。その論文(象眼された銅牌飾の初歩的研究)に依れば、銅牌飾は世界中で
16個位しか知られていないと論文の冒頭に書いてある。そしてそのうち13個は二里頭文化の物で、
3個は長江文化の三里堆遺跡から出土したものであると言う。だから斉家文化の銅牌飾の存在を
知らないのである。そして夏王朝の銅牌飾を含め、銅牌飾を研究した多くの著名な考古学者の
名前を挙げている。その考古学者に交じって日本の青銅器、玉器の研究者林已奈夫博士の
名前も挙げられている。ここで名前を挙げられた多くの考古学者達(12名ぐらい)は全世界で
16個位しか銅牌飾の存在を知らないし、それらは二里頭文化の物か長江文化の物であって、
考古学者達は斉家文化に銅牌飾があることも知らないのは確かである。

ここで王青教授の論文「象眼された銅牌飾の初歩的研究」の冒頭の一部分をコピーしておく。
王青教授がこの論文を書いた頃は副教授だった。





ついでに論文に載っていた16個の銅牌飾のうちの6ッ個の銅牌飾の図をコピーしておく。
このうち1、3、6が夏王朝の墓から出土したもので、岡村博士が本の表紙に載せたものは
1と同一のものである。そして私が集めた斉家文化の物とよく似ている。
私は日本の東京国立博物館で、1と3、の本物を見たことがある。



ところで更に王青教授の論文の中に、二里頭文化の銅牌飾の源流(ルーツ)についての記述があるが、
それによると目の紋様に注目して、丸目とつり目の二種があるとか論じていて、紋様の起源は中国中原の文化で
あるとしている。西の方の文化の斉家文化は眼中にない。王青教授の意見では二里頭文化の
銅牌飾の源流(ルーツ)は、山東省にある海岱文化区の龍山文化に源流があるのではないかと
述べている。トルコ石の象眼の方法や紋様はこの文化に源流があると考えられるとしている。

事実は龍山文化とは全く反対側の、西の方の遥か離れた斉家文化に銅牌飾そのものがあるのである。
実際トルコ石の象眼の技術や青銅製作の技術から見ても、圧倒的に斉家文化に銅牌飾のルーツが
あるとする物証がある。王青教授の山東省の海岱文化区龍山文化の源流説では、青銅の技術にしてもホンの
僅かし発見されていない。盾形をした銅牌飾の特有の形などは龍山文化には影も形もない。
前出の論文の中の銅牌飾のルーツ(源流)について考察をしている部分をコピーしておくが、
この論文には源流、つまりルーツとしては斉家文化は全く眼中にないのである。 



 以上の事から、多くの考古学者達は斉家文化に銅牌飾があることに気が付いていないことが証明されたと思う。




斉家文化に銅牌飾があることをよく知っていたのは、北京の回族の骨董屋である。
もしかしたら中国の収集家も知っているかもしれない。考古学者達が気が付かない理由は
斉家文化の銅牌飾が、盗掘されてしまうので考古学者達が気が付かないと言う理由もあるかもしれないが、
とにかく北京で商売をしている回族の骨董屋は自分の売っているに銅牌飾が
斉家文化の物であることを知っていたのである。

その証拠はここにある。下の写真は北京の回族が営む「禄博斎」という骨董屋のパンフレットであるが
この中にある銅牌飾は、斉家文化の物として確かに書かれている。



上の回族の骨董屋のパンフレットには銅牌飾が載っていて、斉家文化物と説明がある。
赤丸のところを拡大して下に掲載したが、 確かに中国語で斉家文化と書かれている。
英文の説明でも Qijia Culture と書かれている。銅製でトルコ石の象眼のある飾り物とある。


つまり北京の回族の骨董屋は斉家文化に銅牌飾が存在することを確かに知っている。
ところで何故骨董屋の主人が何故回族であることが分かるかというと、それは主人の名前が「馬」だからである。
回族のほとんどの姓は「馬」であって、マホメットの名前からきたマーであるらしい。
なお斉家文化の物が出土する場所は甘粛省の黄河上流地帯なのであるが、そのあたりには
回族の農民が大勢住んでいる。つまり甘粛省の黄河上流地帯の回族と、
北京の骨董商の回族とは共に回族なのである。

 以上で考古学者は斉家文化に銅牌飾があることを知らないこと、
回族の骨董屋は斉家文化に銅牌飾があることを知ってことが証明されたと思う。
そして私は夏王朝の墓から銅牌飾が出土していることと、斉家文化にも銅牌飾があることを知って、
それで新発見に繋がったのである。



ところで前出の王青教授の論文の一番最後に奇妙なことが書かれていた。それは
「筆者が2004年に
ロンドンを訪問した時、ニゥーヨークの骨董市場で、また象嵌された銅牌飾が出現したことを知った。
しかしこの牌飾の紋様や鋳造には多くの疑問点ある。そのことについてまた別に書いてみたい」
と書かれていた。
それでその後、その論文を探し出して読んでみたが、王青教授は斉家文化の銅牌飾を知らないがゆえに、
大きな間違いを犯しているようである。その論文の原文は「紐約新見兩件銅牌飾辯僞」で
(ニューヨークで見つかった二件の象眼銅牌飾は偽物であることを弁ずる)とでも訳すのか。
この論文の冒頭の部分をコピーしておく。この論文のなかでも現存している銅牌飾は16件位としている。

最近,筆者從不同渠道收集了兩件在美國紐約新出現的鑲嵌銅牌飾的資料照片,它們分別是2003年
某古董商在美國紐約舉辦的中國文物展覽的展品,以及2006年紐約某私人藏品。
其中2003年那件注明其時代屬夏代二裏頭文化,所以被置于顯著位置受到格外重視。但筆者經仔細揣摩照片
,並查閱相關資料,認爲這兩件牌飾存有不少疑點,很可能是兩件赝品。現在願借《中國文物報》一角把初步認識刊出,
以與同道共同探討。  據筆者的追蹤統計,到目前爲止,現存國內外的夏代前後的鑲嵌銅牌飾真品共有16件左右。
紐約這兩件牌飾的整體形態和用綠松石鑲嵌的立意與真品沒什麽明顯差別,屬于比較常見的特征。差別最大、
也是疑點最大的是內部紋飾和鑄造技法方面。

   ニューヨークで見つかった二件とは下の写真


王青博士がこれは現代の作品で偽物だと言っているが、私は斉家文化の本物だと思う。
王青博士の偽物だと言う根拠は、紋様が二里頭文化のものと全く違うとか、作り方が粗雑であるとか、
二里頭文化の青銅の鋳造方法と違うとか、象嵌のトルコ石の並べ方が違うとか、上の論文の中に
いろいろとその理由を書いているが、つまり二里頭文化の(夏王朝の)銅牌飾と様々な点で違うから
偽物だと言っているのである。

最初に掲載した論文の銅牌飾の図と上の写真の銅牌飾とは、様々な違う点が様々あるのは確かなのだが、
もし斉家文化にも銅牌飾が存在していて、斉家文化は二里頭文化より以前の文化であると知っていれば、
銅牌飾が二里頭文化の物より稚拙であったり、紋様が違うなどは当然あり得ることなのである。
私は斉家文化に銅牌飾があることを知っているから、上の写真は斉家文化の物と考え偽物ではないと考える。

 もう一つ王青教授が偽物であると言う根拠は、二里頭文化の青銅器は鋳型で鋳造されて模様が浮き出ているが、
偽物だとされた銅牌飾はあたかも銅板を彫刻刀で彫り込んで紋様を浮き出させているように見えるからだと言っている。
これは二里頭文化の物と技法が全く違うと言うのである。銅板を彫刻刀で彫り込んで紋様を浮き出させるなんて
青銅器時代の文化には有り得ないと言っている。確かに偽物だとされたものの模様は彫刻刀で
彫り込んで紋様を造ったように見える。

 斉家文化も二里頭文化も未だ青銅器時代であって、鉄器の彫刻刀などは存在しない時代である。だから王青教授に
すれば、こんな技術で作られた物は二里頭文化の偽物で、最近作られた偽物だというのである。




確かに斉家文化には鉄器などは無く、彫刻刀も無かった。しかし何かの方法で、銅版に彫刻刀で彫り込むような
技術は斉家文化にあったのである。下の写真は斉家文化の銅牌飾なのだが、

左側の三個の目の上のバツ印などは彫刻刀で模様を彫り残したしたような加工をしたことは明らかである。
しかし鉄器が無い時代にどのような方法でこの様な加工をしたかは謎である。
耳の部分に穴が明いているものもある。この穴もどうやって明けたかは謎である。しかし斉家文化に
このような技術は確かにあったのである。この加工の技術は斉家文化の玉器でもみることができる。

斉家文化には玉器を盛んに作った文化で、玉器にも銅の牌飾とソックリの形がある。
そして玉器にも、彫刻刀で彫り込むように模様を彫り残し、彫った跡にトルコ石を嵌め込んであるのである。
下の写真は玉器の牌飾なのだが同じような技術が使われている。


この様な加工がしてあるから偽物だなんて、王青教授の説は根拠の無い説である。
斉家文化には鉄器の工具がなくてもこのような加工は可能だったのである。
もし王青教授が斉家文化の銅牌飾、または玉の牌飾を見ていれば、
「ニューヨークで見つかった二件の象眼銅牌飾は偽物であることを弁ずる」なんて論文は書かないはずである。
こんな論文を書くのは、つまり考古学者は斉家文化に銅牌飾があることを知らないからである。
ニューヨークで見つかった二件の象眼銅牌飾は斉家文化の本物である。

私は斉家文化に銅牌飾があることを知っている。斉家文化には銅だけではなく、玉器にも銅牌飾と
同じ形があることも知っている。そして私は玉と銅の牌飾をたくさん集めた。中国の考古学者は
銅牌飾は16個ぐらいしか存在しないと書いているが、斉家文化まで目を広げれば
同じような形状の牌飾は、私でも買えるくらいたくさん存在しているのである。
このことは回族の「馬」という姓を持つ少数民族の骨董屋も知っていることなのだが。

夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にあると書いたが、そのルーツは
玉器の牌飾が先にあって、それが銅の牌飾なって、それが夏王朝のルーツになったと思われる。
さらに言えば、二里頭文化の夏王朝では青銅器が急激に発達した文化なのであるが、
夏王朝の青銅器のルーツも又、斉家文化にあるといえるのである。


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