トップ アイコン 私の収集品は夏王朝の遺物ではなく、
甘粛省黄河上流地帯に住むイスラム教徒の回族の馬さんが掘り出したものである
 
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 私の収集品とは下のようなもので、トルコ石の象嵌のある盾形の青銅器である。紐通しの穴が4つあり、紋様は人面紋か獣面紋である。大きさは高さ15㎝位である。


 
私の収集品と夏王朝の遺跡(中国河南省偃師二里頭遺跡)から出土したものとを並べてみれば、非常に良く似ていることが分かる。
下は人面紋の銅牌飾


これは獣面紋の銅牌飾


 私の収集品と夏王朝の遺跡からの出土物がこれほど似ているならば、私の銅牌飾も夏王朝の遺物だと考えられるかもしれないが、
私が夏王朝の遺物を入手できる可能性は全く無かった。しかし甘粛省の黄河上流地帯の出土物を手に入れる可能性は大いにあったのである。

 なぜなら以前北京に長くいて、潘家園という骨董市場に通って、そこでアンダーソン土器を買い集めていた。アンダーソン土器は黄河上流の甘粛省、青海省から出土する土器で、そのあたりで掘り出されて北京に運ばれて売られていた。それらの物を売っている北京の骨董屋は、名刺をくれたりするので、殆どが「馬」という姓を持つ回族という少数民族でああることが分かったった。出身地を聞いてみると甘粛省の黄河上流の地名を言い、その辺りは2024年ごろアンダ―ソン博士が土器を発掘したあたりである。


アンダーソン土器のほかに玉器や石器も潘家園で売られていたが、同様にアンダーソン博士が探検していたありの出土物である。このあたりの出土物を扱う骨董屋または売人は殆どが回族であることが分かった。


そのあたりは○○回族自治州とかの地名で回族が多く、その辺の回族ならば殆どが姓は馬であるらしい。更に調べていくと、馬は中国語でマーと読み、それはマホメットのマーからきているらしい。だからこれらのものを掘り出す(はっきり言えば盗掘品である)のは骨董屋と同郷の回教のマーさんである可能姓はかなり高い。

 話を銅牌飾に戻せば、私が北京の骨董市場で買った銅牌飾はアンダーソン博士が発掘に携わった地方の出土物である可能性は相当高い。私が買った銅牌飾は殆どが回族の馬さんから買ったものだからである。
回族の馬さんが扱うものはアンダーソン博士が発掘に携わった地方。その地方で栄えた文化は馬家窯文化とか、斉家文化とか、辛店文化

 私が買った盾形銅牌飾がどこから出土したものか、売っている売人に出土場所を聞いたことがある。そうしたら斉家坪だと言っていた。斉家坪とは斉家文化の命名の元になった有名な遺跡である。盗掘場所を簡単にしゃべるとは思えないが、売人が斉家坪だと言ったのは、でたらめを言うにしても斉家文化関係の出土地の地名を言うしか答えようがなかったからだと思う。

 斉家文化に盾形銅牌飾があるということは、別の馬さんの骨董屋のカタログに、盾形銅牌飾が斉家文化の物として載っていたことからの明らかである。潘家園のイスラム教徒の回族の馬さんの一部は斉家文化に盾形銅牌飾があることを知っているのである。

 実は中国に残されている5個の盾形銅牌飾のうち一個は、甘粛省の天水から出土している。甘粛省の天水は斉家文化があった地である。それなのに甘粛省の天水から出土した盾形銅牌飾を考古学者の方々は二頭文化のものとしている。例えば前出の中国の王青博士、日本の京都大学の岡村秀典花博士(「夏王朝中国文明の原像」の著者)、九州大学の宮本一夫博士(「神話から歴史へ神話時代夏王朝」の著者)などである。しかし最近天水出土の盾形銅牌飾を斉家文化の物だとする中国の二名の考古者の論文を見つけた。易華博士の論文「斉家から二里頭へ・夏文化の探索」には天水から出土した物は斉家文化に属すると書かれている。また、中國共産党新聞網に載っていたもの劉学堂氏の論文にも天水出土のものは斉家文化のものと書かれている。斉家文化にも盾形銅牌飾はあるのである。

 このことから斉家文化にも盾形銅牌飾がありことは明らかであり、少数民族回族の馬さんの骨董屋も斉家文化に盾形銅牌あることを知っている。さらに売人の証言からも私の収集品は斉家文化のものだと言える。しかし問題は考古学者の方々は斉家文化に盾形銅牌あることをご存じない。中国の王青博士、日本の岡村秀典博士、宮本一夫博士の論文や著書には甘粛省天水出土のものを二里頭文化のものとしている。斉家文化に盾形銅牌飾があるのをご存じない。その方々に斉家文化にも盾形銅牌飾が存在することを認めて貰えれば、私の説、「夏王朝の盾形銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説を認めて貰えることになり、私のこの説は中国考古学上の大発見となるのだが。だが今は誰もこの説は認めては貰えていない。私の説を認めて貰うためには何をしたらいいのか。天水出土のものは斉家文化のものですよ、北京の馬という骨董屋は斉家文化にも盾形銅牌飾があることを知っていますよ、と考古学者の方々を説説得すれば信じて貰えるのか。いずれにしても相当ハードルが高い。私が収集したものが斉家文化のものだと認めて貰うのは不可能かもしれない。

 私は斉家文化の盾形銅牌飾を多数収集した。下の写真はその一部だが、見ての通り二里頭文化のものより技術的にもデザインの上でも素朴なものもある。このことからも先に斉家文化に盾形銅牌飾があり、そこから二里頭文化(夏王朝)に伝播したことは明らかなのだけれど。夏王朝の盾形銅牌飾のルーツは斉家文化にあるのである。



 下のものは青銅器ではなく玉器(ぎょくき)である。斉家文化の玉器の中にも盾形銅牌飾とソックリな盾形の外形をしたものがある。二里頭文化の玉器の中にこのような物は無い。斉家文化の玉器のなかに盾形の外形をしたものがあることは、斉家文化にも盾形銅牌飾が存在するいう明らかな根拠になると思う。


 実は斉家文化についてもネットで詳しく調べているうちに、斉家文化は、青銅器がシルクロードから入って来て、夏王朝の青銅器文化に伝わった通り道であったことが分かった。盾形銅牌飾の原形はシルクロードの天山北路のハミ遺跡に起源があり、斉家文化で盾形銅牌飾が完成し、二里頭文化の夏王朝の国宝級の遺物となった。それは青銅器が来た道でもある。斉家文化は青銅器がシルクロードから二里頭文化の夏王朝に伝播するルート上にあったのである。中国語のネットで、ハミ天山墓地遺跡から出土した盾形銅牌飾の原形の写真を探し当てた。

新彊ウイグル地区 斉家文化
二里頭文化
ハミ天山墓地遺跡 斉家坪遺跡 甘粛省天水出土 夏王朝の遺跡

 シルクロードの遺跡から出土した銅牌飾(板状のものとスケルトン状のもの)は、斉家文化を経て夏王朝(二里頭文化)の国宝級の盾形銅牌飾となった。そこで夏王朝の青銅器文化の花が開いた。私の収集した盾形銅牌飾をここに並べなくても、ネット上から探し出した写真の銅牌飾だけでも、青銅器の伝搬のルートが分かる。これらの出土地点を地図上にプロットしてみると青銅器の来た道がハッキリと分かる。青銅器はシルクトードを伝って斉家文化に入ってきたのである。当然4000年か5000年前にはシルクロードと言う言葉もなかったが。下の地図でハミ天山墓地遺から夏王朝の二里頭遺跡までを辿ってみて頂きたい。ひたすら中国の中原に向かう青銅器の来た道が分かるはずである。盾形銅牌飾について言えば、その先は無かったようで、夏王朝で途絶えてしまったらしい。写真は劉学堂氏の「斉家銅器・西から受けて東に繋げる」その他を参考にした。


 なお、
青銅鏡の原形もシルクロードの天山北路のハミ遺跡から出土していることをネットで探し当てた。そしてその写真も探し出した。青銅鏡は斉家文化でも出土していて、斉家文化が青銅器の伝播の通り道であったことが分かる。卑弥呼が中国の魏から貰ったという鏡のルーツは、斉家文化にあり、更にその先のルーツは天山北路のハミ遺跡にあったのである。しかし夏王朝の二里頭文化では青銅鏡は出土していないようである。卑弥呼が魏から貰った青銅鏡は鏡日本製だという説もあるが、中国にルーツがあるのは確かである。円くて中央に紐通しの摘まみが一つだけある特長は、天ハミ天山北路墓地遺跡から中国の斉家文化を通じて日本にそのまま伝わっているのである。

 新疆ハミ天山墓地遺跡出土の銅鏡  甘粛省斉家文化から出土した鏡 殷墟の婦好の墓から出たものの一つ

 シルクロードのハミ遺跡まで持ち出して青銅の来た道を書いたのは、私の説「夏王朝の盾形銅牌飾のルーツは斉家文化にある」を証明したい為なのだが、殆どの考古学者は斉家文化にも盾形銅牌飾が存在することをご存じない。もしこのページを読んで頂ければ、斉家文化にも盾形銅牌飾があることを信じて貰えるだろうか。もしくは考古学者の方々に、専門家でもない私がお教えすれば、信じて貰えるものだろうか。


終わり





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