斉家文化の銅牌飾を手に入れることが出来たのは
回族の馬さんのおかげです


 ¥中国の考古学界では「銅牌飾は二里頭文化で初めて出現した。象眼の技術も二里文化で完成した」という説が主流です。しかし私は斉家文化に銅牌飾はある、象眼の技術は斉家文化で完成していた、二里頭文化の銅牌飾のルーツは斉家文化であることを主張したいです。銅牌飾に付いて説明しておきますと、銅牌飾とは青銅器であり、高さは15㎝ぐらいであり、多くはトルコ石の象嵌が施されていて、左右に合計四個の紐通しの耳があり、目のある人面紋か獣面紋であるものが多いです。下が私が収集した銅牌飾の一部です。

 私が収集した銅牌飾は、夏王朝の二里頭遺跡から三個だけした出土した銅牌飾と、とてもよく似ています。下が二里頭遺跡から出土した銅牌飾で、二里頭文化の銅牌飾です。


 私が収集した銅牌飾は、二里頭文化の銅牌飾とよく似ていますが、二里頭文化のものではなく、斉家文化ものなんです。私が収集した銅牌飾が斉家文化のものだと分かったのは、北京に住む回教徒である回族の馬さんから買ったものだからなのです。北京の巨大な骨董市場である潘家園やその周辺には、回族の骨董屋や売人がいて、その姓はほとんどが馬でありマーと呼ばれることに気が付きました。その馬さん達は1924年にアンダーソン博士が発掘調査をしたあたりの出土物を、北京で独占的に取り扱っているようです。

 そのアンダーソン博士ですが、1934年に甘粛省の黄河上流やその支流で発掘調査して沢山の土器を発掘しました。それでそれらの土器は日本ではアンダーソン土器と言われています。一方、アンダーソン博士の著書「黄土地帯」の360ページに次のような記述があります。「この河の住民は全部とは言わぬまでも、主として回教徒だった。彼らの姓はいずれも馬(マー)であるが、それは教祖マホメットの頭文字に由来するということだった」と書かれています。この回教徒の馬さんが沢山住んでいる辺りで、アンダーソン博士は斉家坪遺跡を発見しました。それでこの辺りのこの時代の文化を、斉家文化と名付けました。

 つまりアンダーソン博士の著書からわかることは、博士が調査した辺りの住民と、北京で出土物を売っている馬さんは、同郷の回教徒の回族の馬さんなのです。北京の回教徒の馬さんが扱う主な出土物はアンダーソン土器です。アンダーソン土器が甘粛省の黄河上流やその支流周辺で掘り出されて、そこから遠く離れた(1,650㎞は離れている)北京まで運ばれて売られていることはよく知られています。下は北京の潘家園骨董市場で売られているアンダーソン土器。


 実は私は以前北京に住んでいて、北京でアンダーソン土器を買い集めていました。そのアンダーソン土器はアンダーソン博士が発掘調査した辺りの回族の馬さんが掘り出してものであり、それを北京にいる回族の馬さんに受け渡すルートがあって、それを北京にいる私が買っていました。それと同じルートで青銅器である銅牌飾が私の手に入ったということです。私が斉家文化の銅牌飾を手に入れることができたのは、アンダーソン土器を集めていたからであるとも言えます。

 下の銅牌飾は馬さんではなく馮という人から買ったもので、馮さんが自ら斉家文化地帯から北京に持ってきたものを私が買いました(2011年2月)。馮さんの話に拠れば、馮さんのお父さんが30年くらい前に、掘り出した人から40枚くらいも購入したもので、その中で状態の良いものは4、5枚しか無く、もっとも状態が良いものを手元に残しておいたのだと言っていました。馮さんは回族ではないかもしれませんが、斉家文化地帯の出身であることは確かで、斉家坪遺跡も知っていました。下のものがアンダーソン博士が発掘調査した辺りの出土品であることは確です。馮さん自身はこれは斉家文化のものだと言っていました。


 アンダーソン博士の著書には興味深い事実が書かれています。博士は冬の間は発掘調査を止めて、農民から美しい彩文のある土器を高値で買い取っていたのですが、それらの土器が出土する遺跡があるはずだと、助士に探させました。そしてついに半山遺跡を探し当てたのです。しかし博士達がそこにたどり着いたときは、大盗掘が行われた後でした。博士の著書「黄河地帯」369―ジには次のような記述があります。「我々は周囲が完全に見渡せる高所に到達した。そうして、そこで大盗掘の跡を様々とみることができた」「狡知にたけた回教徒どもは、1フィートの鉄製探桿子によって地中を浚い、驚くべき正確さを以て、地表下1メートル以内にある副葬壺を掘り出していったのである」と記されています。この年は1924年の夏で、もう100年の前のことですが、この時この地方の回教徒達は、地中に埋まっている珍しいものを掘り出して売れば、金になることを知ってしまったのだと思います。

 私が北京の回族の馬さんから買ったのは、土器、青銅器、玉器です。アンダーソン博士が黄河上流や支流で発見した文化は、斉家文化、馬家窯文化、辛店文化などです。土器は上のどの文化からも出土しますが、馬家窯文化では青銅器、玉器は出土しません。辛店文化では青銅器は出土しますが玉器は出土しません。青銅器と玉器が出土するのは斉家文化だけです。つまり私が収集した青銅器、玉器は斉家文化のものと考えられます。更に青銅器と玉器でソックリなものも手に入れました。青銅器と玉器でソックリなものもがあるのは斉家文化以外には考えらません。
玉器  青銅器 



 アンダーソン博士が斉家文化地帯を調査した辺りのものが、回教徒の馬さんのルートで北京に運ばれ、それで私は斉家文化の青銅器、玉器を手に入れることができました。

 二里頭文化の銅牌飾と、私の集めた斉家文化の銅牌飾を並べてみれば、銅牌飾は斉家文化から二里頭文化に伝播したことが見事に証明されます。斉家文化で紋様が変化していき、その後銅牌飾が二里頭文化に伝播したことも分かります。


 玉器においても夏王朝(二里頭文化)の銅牌飾のもののルーツは、斉家文化にあることが分かります。


 玉器では紋様は完全に人の顔にまで遡れます。夏王朝(二里頭文化)の人面紋の銅牌飾のルーツは斉家文化にあり、人面紋のルーツは人の顔であることも分かります。


 銅牌飾には獣面紋もありますが、下のように並べてみれば、獣面紋の紋様のルーツは牛か山羊であることがはっきり分かります。斉家文化内で紋様が進化し、その後二里頭文化に伝播したことが分かります。


 多くの考古学者の論文には、二里頭文化の(夏王朝の)銅牌飾の紋様のルーツは龍であるという説が多いですが、紋様の元は龍などの想像の動物などではなく、単純な人や動物の顔か頭であることが分かります。以上のことから二里文化の銅牌飾のルーツは斉家文化の銅牌飾であり、斉家文化に銅牌飾はあり、象眼の技術は斉家文化で完成していたと言えるのです。

 北京の回族の馬さんの話に戻しますが、北京に古玩城という骨董屋が集まっているビルがあり、その中に禄博齊という馬家窯文化、斉家文化、辛店文化の出土物を専門に扱う骨董商が店を構えています。この店の店主もまた馬という姓なのですが、斉家文化に銅牌飾があることを知っているようです。その骨董屋のパンフレットが下で、銅牌飾にだけ斉家文化の文字に赤丸を付けましたが、首飾りやナイフのようなものも斉家文化のものだと書かれています。




 禄博齊という古物商は斉家文化に銅牌飾があることを知っています。その店主の馬さんに出身地を聞いてみれば、アンダ―ソン博士が発掘調査をした辺りの地名を言うと思います。

 しかし私の集めた銅牌飾は斉家文化のものだと主張しても、私の収集品は出土地が分からないのだから、斉家文化のものとは信じられないという人がいるかもしれません。しかし実際に斉家文化から銅牌飾が出土しています。それはアンダーソン博士が発見した斉家坪遺跡から20~30㎞の近さの、甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷で、銅牌飾が出土しています。下が広河県阿力麻土郷出土の銅牌飾。


 アンダーソン博士が発見した斉家坪遺跡と、実際に銅牌飾が出土した広河県阿力麻土郷を下に示しますが、非常に近い距離です。


 広河県阿力麻土郷から銅牌飾が出土していることはこの中国語のページ(☚クリック)を見れば明らかです。そのページに書かれた説明に依れば「阿力麻土郷出土の斉家文化の銅牌飾は、二里頭文化のものより早期のもので、その芸術、歴史、考古学価値、夏文化の研究において重要な意義があるものである、このものは斉家文化のものであると同時に、夏王朝のものと重要な関係がある」と書かれています。夏王朝のトルコ石象嵌の銅牌飾のルーツが斉家文化にあることを明確に示しています。しかし中国の考古学者はこの事実を未だ知らないようです。従って私の主張も認められないのも残念ながら現実です。


以上





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