トップ アイコン 厳寒の北京まで行って買ってきたお宝はこれ!

 下は北京で20110年2月に買ってきたトルコ石象嵌獣面紋の銅牌飾の部分拡大写真である。
恐らく今から3600年位前の、夏王朝時代の末期に作られたのものと思われる。
青銅の鋳造の技術は薄く繊細であり、青銅の紋様は細い線の如く盛り上がっていて、
精巧に象眼されたトルコ石はビッシリと隙間が無く、現在に至るまで一個の剥離も無い。
恐ろしく寒かったが、貴重なもので長く待ち焦がれたものを手に入れることができた。


  これが厳寒の北京(2010年2月)に行って買ってきた「トルコ石象嵌の銅牌飾.の全体像。高さ13.4p、巾11cm

  購入した物の外形は盾形をしている。そして青銅器であること、トルコ石の象眼があること、紋様が獣面紋であることなどの特徴があるが、その特徴を持ったソックリなものが夏王朝の貴族の墓から出土している。そして夏王朝のものを実際に目にすることができた。

  下の写真は夏王朝の遺蹟から出土した銅牌飾。東京国立博物館で2010年7月から開かれた「誕生!中国文明」の特別展に展示された。その絵葉書を写真に撮ったもの。高16.5cm、巾11cm。

  夏王朝の遺蹟から出土したものは二里頭文化のものであることは、考古学の発掘の記録にも載っていて明らかである。一方私が購入した物は二里頭文化のものではない。斉家文化のものである。お宝としては夏王朝(二里頭文化)のものを購入したと言った方がずっと価値が上がるかもしれないがそうではない。

  私が購入した物が何故斉家文化のものと言えるのかは後で説明するとして、もう一つ強調したいことは、この盾形の銅牌飾は二里頭文化と、斉家文化以外には存在していないのである。遠く離れた二里頭文化(河南省)と、斉家文化(甘粛省)に同じようなものが存在することは不思議なことであるが、二つの文化から出土する盾形銅牌飾の関連性を暗示させずにはおかない共通性があるのである。

 実を言うと、盾形の銅牌飾が出土した場所はもう一つあり、四川省の三星堆遺蹟からも出土しているが。そこの盾形の銅牌飾は遠く離れた二里頭文化か、斉家文化から伝播したと推定されるものである。






 下は東京国立博物館で開かれた「誕生!中国文明」のパンフレットである。上の写真、つまり夏王朝から出土した獣面紋銅牌飾の拡大図である。銅牌飾はこの展覧会では「トルコ石象嵌の動物紋牌板」と書かれたいたが、中国の考古学の文献では「銅牌飾」と呼ばれるのが一般的である。また動物紋についても獣面紋と言われるのが普通らしい。






 二つの文化から出土した銅牌飾を並べてみる
 夏王朝の墓(11号墓)から出土した
獣面紋銅牌飾
 購入した盾形の獣面紋の銅牌飾、
盾形も紋様も左のものと似ている。

 実は二里頭文化の盾形銅牌飾と斉家文化のものの写真を並べてみせたのは、私が初めてだと思う。何故そのようなことが言えるかと言うと、考古学者は斉家文化に盾形の銅牌飾があることを全く知らないからである。一方斉家文化の銅牌飾を売っていた売人も、夏王朝の遺蹟から盾形の銅牌飾が出土しているなんて知識はないのである。

 二里頭文化にも斉家文化にも共通する盾形銅牌飾があると気が付いたのは、私が初めてかもしれない。中国の考古学者達は斉家文化に盾形銅牌飾があることを本当に知らないし、売人も夏王朝の銅牌飾を知らないのだから、二つの文化に似たものが在るなんてことは誰も気が付いていないのである。並べてみれば、両者はよく似ている物であることが直ぐに分かるし、何故同じものが在るのか不思議に思うはずなのだけれど。
  また検証を進めていって分かったことなのだけれど、そしてこれも考古学者の知らないことであるのだけれど、二つの文化に似ているものが在ると言うだけのことではなく、夏王朝(二里頭文化の)の盾形銅牌飾は、斉家文化から伝播したのである。それを最初に発見したのも私である。

  私が最初に発見したなどと言うためには、私が購入した物は本当に斉家文化のものなのか、中国の考古学者は斉家文化に盾形の銅牌飾があることを本当に知らないのか、最初に銅牌飾が斉家文化にあって、それが夏王朝に伝播したと言えるのか、等々証明しなければならないが、ここでは沢山のことを書ききれないので、その証明をちょっとだけ書いておくことにする。




 再び北京で購入した斉家文化の盾形銅牌について

 上の写真は2009年の10月の国慶節の時、北京の骨董市場・潘家園で見つけて写真に撮ったものである。北京で見たときはまだ土が付いていた。

  甘粛省の回教徒が持っていて、こういうものがあるのだけれどと、見せてくれた。価値のあるものだと直感して、どうしてもそれが欲しかったが、とても高かった。それがついに安くなったのでそれを5か月後に北京にまで買いに行ったのである。

  どうして安くなったか? その物を持っている人物は地方から北京に出てきて、出土品を売って稼いでいる人物である。だから春節(旧正月)にはどうしてもその物を現金化して故郷に帰りたいのではないかと予想したのである。

  それにその物を持っている人物は、これと同じもようなものが博物館にもあって、とても価値の有るものだと言っていたが、彼はこの物の本当の価値に気が付いていないはずだと考えたのである。本当は上に書いた如く中国夏王朝の銅牌飾と似ている物なのである。

  同じようなものが博物館にあると言ったのは、今回日本で初めて公開された洛陽博物館にあるもの(上の写真)のことかもしれない。しかし甘粛省の回教徒は夏王朝の銅牌飾との類似などを知らなはずだから、そのものが高値で売れるはずが無いと予想したのである。

  それで値下げ交渉は、日本からパソコンを使て、北京の元いた会社の女性の部長に連絡し、その部長にその回教徒と何回も値下げ交渉を続けてもらった。交渉を続けていると、予想どおり春節(旧正月)が近づくにしたがって値が下ってきた。そしてついに私にでも買える値段になったので、春節の前に北京に行って、それを買ってきたのである。北京の春節の頃(2010年2月)は本当に寒かった。

 購入した獣面紋のものは売人の話に拠れば、売人のお父さんが30年くらい前に、掘り出した人から40枚くらいも購入したもので、その中で状態の良いものは4、5枚しか無く、もっとも状態が良いものを手元に残しておいたのだとか。1977年から1979年くらいの文化大革命が終わったばかりの考古学遺跡については、無政府状態のであったのかもしれない。但し現在でもこの地方の盗掘については、無政府状態であるのだけれど。

  出土地をはっきり聞き出すことはできなかったが、甘粛省の臨夏市の周辺の東郷県龍泉鎮とか韓集県とか広河県斉家坪とかの名前を挙げていた。斉家坪の名前はあまりにも有名で、斉家坪によって斉家文化の名前が付けられた有名な遺跡であるので、ここから出土したとはにわかには信じがたいが。

  実は別の回族の売人に別の銅牌飾の出土地について聞いてみたが、臨夏市の近くの和政県だと言っていた。

  いずれの証言も彼らが本当のことを言っているのかどうかは分からない。多分出土地などにについて本当のことを言うはずもなく、作り話かもしれない。

  売人が作り話を作るにしても、斉家文化地帯ではなく、何故河南省の夏王朝の遺蹟の近くで掘り出したと言わないのか? その方が自分の持っているものの価値が高まるはずである。しかし売人は夏王朝の遺蹟で出土したなんて作り話は出来ないのでる。この銅牌飾を売った売人は、甘粛省の回教徒の回族であるから、作り話を話したにしても自分の身の丈にあった作り話を話したのだと思う。

 斉家文化があった甘粛省の回教徒が売人であるからと言って、私が買ったものが斉家文化のものであるという決定的な証拠にはならないが、状況証拠くらいにはなりうるだろう。それが斉家文化のであると言うもっと決定的な根拠も当然有るが。




 今回購入したのは獣面紋の銅牌飾であるが、実はずっと前(2007年2月)に人面紋の銅牌飾も購入していた。これも夏王朝の人面紋の銅牌飾と非常によく似ている。

 下の写真の右の物が斉家文化の購入品。左のものは本の表紙の写真であるが、夏王朝の人面紋の銅牌飾である。

 この本は岡村秀典博士の著書「夏王朝。中国文明の原像」の表紙である。そして岡村博士の本の表紙では目の位置が下になっている。この人面紋の銅牌飾は目を上にして見るのか、下にして見るのかの見方の違いがあるが、別の根拠から人面紋の銅牌飾は目を上にして見るものだと考えられる。

 人面紋の両者は技術的には差があり、夏王朝の人面紋銅牌飾は精緻にできているが、購入した斉家文化の人面紋のものは技術が稚拙であり古い。斉家文化の物が古い物であることこそが、二里頭文化より先に斉家文化に銅牌飾が存在していて、後に夏王朝の文化に伝播したことを示す根拠になりうる。





夏王朝遺跡からの出土した盾形の銅牌飾は三個だけ出土していて、私はその三個の内、二個と似ている物を手に入れることができたのである。

  そしてその二個の夏王朝遺跡出土の本物を、日本で見ることができた。獣面紋の物が日本で展示されたことは前に書いたが、人面紋の銅牌飾は2012年の10月から東京国立博物館で始まった「中国王朝の至宝」展で展示された。夏王朝遺跡からの出土した三個とは下の三個であって、人面紋は左の物、獣面紋のものは中央の物である。






 以前購入した人面紋のものは夏王朝の人面紋より技術が古いと思われるが。獣面紋の銅牌飾の獣面紋のものは、夏王朝の物とほぼ同じ時期に斉家文化内で作られたと考えられる。

 何故購入した獣面紋のものが、夏王朝の獣面紋ものと同じ時期のものかと言えるかというと、両者とも青銅の技術が同じくらい精緻であって、両者の製造技術が同程度だと思われるからである。

 更に獣面紋の購入品は平面ではなく瓦状に反りが入っている。一方夏王朝の遺跡から出土した三個の銅牌飾も、全て瓦状に反っている。反っているところが同じである。銅牌飾を鋳込む場合、下型に青銅を流し込むだけでは、重力によって平面的な銅牌飾ができると思うが、それでは反りは入らない。反りを入れるには別の上型があったのか、別の技術が必要だと思うが、そこが夏王朝のものと同じなのである。

  何故反りがあるかについては、腕に巻きつけやすいようにと言う説もあるが、発掘の状況図を見ることができたが、銅牌飾は胸の辺りに置かれているように見えた。だから腕に付けたものかどうかはハッキリしない。

  製造時期の差は、今回購入獣面紋のものは、以前に購入した人面紋のものより、軽く薄くできていることである。軽く薄くなったという意味は、貴重な青銅の使用量が少なくて済むように技術が進歩したのだと思う。

夏王朝の出土品

購入品、反りがある。
そして薄い




>不思議な目玉の中の瞳
今回の獣面紋の購入品の目玉の中をよく見ると、なぜか瞳があるのが見える。
その意味や、これを作る技術については分からないが、確かに瞳が見える。

 こちらは夏王朝の獣面紋の盾形銅牌飾である。目の玉の辺りを拡大してみると、こちらにも瞳らしきものが見える。瞳らしきもの単なるキズのなのだろうか。それとも獣面紋の飛び出た目玉に、共通に入れた瞳をなのだあろうか。謎である。





 本当に中国の考古学者は斉家文化に銅牌飾があることを知らないのか。それを証明することができる。中国の考古学者は銅牌飾は全世界的に見ても16個しか存在していないと考えていて、その中に斉家文化のものは無いと考えている。実は16個の中に斉家文化のものは有るのであるが。

  下の図は山東大学考古学系、王青教授の論文「象嵌銅牌飾の初歩的研究」(文物2004第5期)の図を編集して使用させていただいたが、山東大学の王青教授は象嵌銅牌飾に詳しい考古学者である。その王青博士は銅牌飾は全世界で16個しか知られていないとしている。更に言えば中国国内にはそのうち7個しか残されていないのである。中国には7個しか存在していないのは、他は海外に流出してしまっているからで、1個は日本のMIHO博物館にある。下の図には15個しか掲載していないが、あとの一つは形状不明であり、アメリカの有名な個人収蔵家、ポール・シンガー氏の下にあるといわれている。 下の図がその15個。






 >中国の考古学者は、盾形をした銅牌飾は16個しか現存していないと考えているのであるが、中国に残された5個の銅牌飾の出土地は分かっていて、三か所である。

@夏王朝があった二里頭遺跡(河南省)から3個(図左側の1、3、6)

A四川省の三星堆遺蹟から3個

B甘粛省の天水(斉家文化地帯)から1個(上の図の中央下の歪んだ形のもの)

  ところで王青教授の論文では、Bの甘粛省の天水からの1個は、天水が斉家文化地帯であるのに斉家文化のものではなく、二里頭文化のものが天水に運ばれたとしている。王青教授の説では斉家文化地帯で銅牌飾が作られたことを否定しているのである。また四川省の三星堆遺蹟からの3個は二里頭文化の技術が伝播したのだとしている。

  しかし甘粛省の斉家文化では盾形をした銅牌飾が出土するのである。私はそれを数個買い集めることができた。更に斉家文化地帯からは、
玉器<の盾形をした牌飾が沢山出土しているのである。そのことを考古学者は全く知らないのだが、甘粛省出身の回教徒の回族の骨董屋はそれを持っていて、玉器の牌飾も青銅器の牌飾も斉家文化のものだと言う。多分出土する場所も知っているのかもしれない。

  考古学者は知らないのだが、甘粛省の斉家文化地帯のどこかで
玉器の牌飾も青銅器の牌飾出土するのである。

  王青教授が紹介している16個の銅牌飾の内、出土地が分かっている7個以外は出土地は不明である。不明ではあるが王青教授の推測に依れば夏王朝の遺蹟、すなわち二里頭文化(河南省)のものではないかとしている。しかし海外に流出したものの幾つかは、私から見れば斉家文化のものではないかと思えるものもある。

 斉家文化からは青銅器より古い玉器の牌飾も出土する。このことは夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にあることを示しているのである。斉家文化から盾形の銅牌飾が伝播して夏王朝の銅牌飾となったのである。




盾形の銅牌飾が出土したところは、河南省の二里頭遺跡,四川省の三星堆遺蹟、
そして甘粛省の斉家文化地帯のどこかの三か所なのである。
そして甘粛省の斉家文化地帯の天水からは、一個の銅牌飾が出土していることが
考古学の論文にも記録されている。





 私は上に紹介した二個の銅牌飾だけではなく、斉家文化の玉器と青銅器の盾形の牌飾をかなり収集した。

 下の写真は人面紋の牌飾である。上段が銅又は青銅製、下が玉器の牌飾である。玉器を大量に作り出したのは斉家文化である。青銅器の文化があったのも、象嵌の技術があったのも斉家文化なのである。であるから下のものは斉家文化のものに間違いない。



 これも収集した獣面紋の牌飾である。左一つが玉器、右二つが青銅製である。




>購入した物が斉家文化のものであって、それが夏王朝の銅牌飾と似ていて、斉家文化には青銅器より古い玉器の牌飾までもがあったことは、夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化であり、夏王朝の銅牌飾は斉家文化から伝播したものであることを示している。夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にあった。そしてそれは私の新発見なのである。そのことは「夏王朝の銅牌飾のルーツは黄河上流の斉家文化にあった」に詳しく書いた。




 今回購入した獣面紋の銅牌飾は、斉家文化内で青銅や象嵌の技術が発達していき、その最高の物が、今回購入したものであったかもしれない。夏王朝は(BC1600頃(またはBC1520頃とも言われる)に滅びている。斉家文化もほぼ同時期に消滅している。夏王朝の銅牌飾は夏王朝の次の殷王朝には伝わらなかった。斉家文化の銅牌飾も、次の文化には伝わらず消滅してしまったようである。しかし斉家文化の銅牌飾については、考古学者の研究に出てこないのだから分からないことも多い。 





終わり




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