トップ アイコン 北京の城壁は毛沢東が壊した   トップ アイコン

 毛沢東が北京の城壁を壊したのは確かなことである。2008年のオリンピックのころにはネットで調べれられた。しかし今ではそれらのネット上の情報は消えてなくなっている。毛沢東が壊させたことは、中国ではヒミツにしなければならないことらしい。だから今ではこの事実は調べられない。しかし「北京の城門」で検索してみると、ウィキペディアの「北京の城門」には「中華人民共和国の成立後に毛沢東が城壁の取り壊しを命じたために大部分は破壊されてしまい、現在はいくつかしか残っていない」と書かれている。調べていくと故宮も改造しようとしたらしい。実際に故宮の一部は改造されたようである。故宮の東側にある労働人民文化宮などがそれかもしれない。

 2008年の北京オリンピックの頃、私は北京に住んでいたのだが、新中国ができた頃には、北京には巨大な城壁と城門があったはずだと気が付いた。それなのに今では殆んどの城壁は無くなり、城門は正陽門と徳勝門くらいしか残っていない。それでそれらが何で無くなってしまったのか、調べてみたくなった。

 実はその頃よりずっと前に北京の城壁は、毛沢東によって壊されたという噂を聞いたことがある。その一つは、ワン・チュアンという作家の「マオ」という本の中に書かれていた。もう一人は北京の古い屋敷(四合院)を見学に行った時、女主人が言った言葉である。しかし二人とも毛沢東に恨みを持つ理由がある人物なので、そんなこともあったのか、位にしか思っていなかった。ワン・チュアンは両親が共産主義体制の中で迫害された作家である。古い屋敷の女主人は満州族の貴族の末裔で、文化大革命の時代には自分が住んでいた屋敷を、追い出されたと言っていた。

 その頃ネットを検索してみると「新中国成立後、毛沢東が古い城壁の取り壊しを命じた。今になってみると、これは非常に惜しいことだ。」という文が日本語で見つかった。こんなにハッキリ書いてもいいのかな、と思うが、「人民中国」(☜クリックすれば今でも読める)には、中国政府系の雑誌の中に邱華棟と言う作家が書いたものである。

 そして何故か、北京オリンピック前後に、「毛沢東の一言が北京の古い城壁を破壊した」(今では見えない)という文章がネット上でいくつか見られるようになった。殆ど同じ文章が、8月5日から8月8日頃にかけて写真入りで転載されてた。更に別のページで、「毛沢東が北京の城壁の取り壊しを命令した。故宮ももう少しで花園に改造されるところだった」(今では読めない)という記事があった。また下の別の記事もあった。タイトルは(北京城墻大規模拆除記,毛沢東称是政治問題)で日本語に訳せば、「北京城壁大規模排除記・毛沢東はこれは政治問題だと言った」(今では読めない)である。

 「北京城墻大規模拆除記」を読むと毛沢東が指示したことはハッキリわかるし、その指示や実際の破壊は、大躍進政策の時代(1958年から1961年)と文化大革命(1966年から1976年)の時代のことであり、大躍進政策の時代にには外城の一部が、文化大革命の時代には内城の城壁城門が完全に取り除かれた。大躍進政策はその政策により中国人が2000万人とか3000万人が餓死した時代であり、文化大革命も政敵や知識人が大衆動員によって迫害された、大混乱の大変な時代だった。

 下の図は新中国ができる前にはあった城門と城壁であり、内城と外城がある。紫禁城は内城の中にあり中央の四角の部分が紫禁城である。ちなみに私は外城の広安門の赤い丸のあたりに四年間住んでいた。これらの城壁と城門は文化大革命が終わる頃には無くなっていた。


 日本側の資料としては、「北京」倉沢進・李国慶著、中公新書があったのでそれを読んでみた。それによれば北京の再開発案には、二つの案があって、中国の学者(梁思成等)が提案した案は、旧市内を歴史名城としてできる限り保全し、西の郊外に官庁街を造るというものであった。これに対しソ連人専門家が提案した案があって、それは天安門広場や長安街にそって政府機関を配置するという案であった。二つの案の間に長い論争があって、ついにソ連案が採用されたのだが、それは毛沢東の意向であったらしいと王軍と言う人が推測している。この毛沢東の意向があって、そしてその後の1950年以降、梁思成氏等の反対を押し切って城門と城壁は次々と壊されていったと書かれている。


かっては存在した北京の城壁


城壁は取り壊されたが、北京城の東南角楼は唯一現存する楼閣


東直門の箭楼。これも破壊された

 日本側の資料「北京」の著者によれば、1950年以降、城門と城壁は次々と壊されていったと書かれているが、実際には毛沢東が北京の城壁の取り除きを指示したのは、1953年8月12日であったらしい。毛沢東はこの日の全国財経会議で、北京の城壁撤去の大問題は政府によって決定し、政府によって実行されると講話した。そしてその年の12月から北京の外城の城壁と楼門の取り壊しが始まった。北京は城壁によって内城と外城とに分かれているが、このとき取り壊しが始まったのは外城の城壁だけであった。しかし楼門と城壁を取り壊すと言ってもそれは大変なことであったらしい。城壁の片側だけしかかレンガを外せなかったり、両側のレンガを外したとしても、城壁の真中の土は、残っていたりしていたらしい。それでも北京城の南側の外城の永定門、広渠門、広安門などは1957年頃に取壊されている。

 一方このころには取り壊しに反対の声があり、1957年6月には国の文化部が北京の城壁の取り壊しは国際的にも影響が大きいとして、取り壊しは不賛成という意見を北京市に伝えた。これに国務院も賛成して、北京の城壁の取り壊しは中止になった。

 ところが1958年1月になると毛沢東は南寧の会議で次のように言うのである。「我们不軽視過去,迷信将来,還有什么希望 古董不可不好,也不可太好。北京拆牌楼,城墻打洞也哭鼻子。这是政治問題」(最後の言葉は、これは政治問題だ)

 1958年1月、つまり同じ月に、第14回最高国務会議で、毛沢東は言う、「南京、済南、長沙的城墻拆了很好,北京、開封的旧房子最好全部変成新房子」(南京や済南、長沙のように城壁を取ってしまったところは良い。北京や開封の古い家は全部新しくする方がいい)

 1958年3月には成都会議で毛沢東は又言う。「拆除城墻,北京応当向天津和上海看斉。」(城壁を取り除いて、天津や上海のようにすべきである)

 1958年4月には、周恩来が「毛主席の指示に基いて、今後数年内に北京市の都市の様子を徹底的に変えること」についての手紙を中共中央に送った。

 そして1958年8月に北載河会議の後に大躍進運動が始まり、9月に北京市が「北京の総体規画説明」と言う案を出した。それは共産主義思想とその風格をもって、北京旧市街を根本的に改造し、旧市街が与えている制約と束縛から解放するというものであった。具体的には正陽門、徳勝門、鼓楼などを除き、全ての城門と城壁を取り除くという計画であった。尚且つ「根本的改造」という計画があり、それは故宮の改造も含むものであった。

 このようにして北京の内城の城壁の撤去は1958年に始ったのだが、レンガの量は40万立方mもあり、レンガを取ってもレンガの間の土は更にその12倍もあった。しかも大躍進運動の時期の、農村では何千万人もの餓死者が出ている頃のことであるから、労働力が不足して、城壁は撤去しきれなかったのである。

 北京の地下鉄環状線は、北京の内城の城壁があった位置とほぼ一致している。それで、城壁を壊したのは地下鉄を通す為であると言う人もいるが、城壁を破壊し始めたことの方が先であって、城壁がある位置に地下鉄を作ることを決めたのは後のことである。

 内城の城門と、城門の間の城壁を、地下鉄を通すために取り壊すことが決まったのは、1965年1月のことである。それ以前に既に内城の城門で壊されていたものもあったが、崇文門、和平門、宣武門はその時期まだ残っていた。地下鉄工事の方法は、地面から下へ掘り下げる方法であったので、家を撤去して住宅密集地帯に地下鉄を通すより、既に壊されたり、壊れかけている城壁の位置に地下鉄を作れば、コストがずっと安いと言うことから決められたのである。

 地下鉄工事は始め、軍隊や専門の作業員によって行われていたらしいが、そのうち文化大革命に突入した、後で、北京人に城壁の取壊の義務を科す大動員令が出された。文化大革命がまさに狂気であったように、城壁の破壊もまた狂気の中で行われたらしい。「北京城壁の最後の取り壊し」(今では見えないが新聞に載っていた)という文章の中にそのありさまが書かれている。

 「北京城壁の最後の取り壊し」は取り壊しの体験記で、なかなか生々しい。この話しは1969年の春の初めの頃のことで、復興門近くの城壁で、既に夕暮れに近く、土埃が舞う中のことである。各職場からの人々が、道具を手に蟻の如く城壁に取り付いて、レンガを剥がし落とし、トラック、三輪車、大八車、馬車、手押し車に積み運び出したと書かれている。しかしことは城壁を破壊すれば済むことではなく、防空壕(地下鉄)を作る為に尚深く掘り進まなければならなかった。「穴を深く掘ること」は逆らえない「最高指示」であって、城壁はある一人が言うがままに決められた対象であったと書かれている。城壁を対象にした破壊は、文化大革命で醸された残忍な破壊欲を満たしたとも書かれている。

 上の体験記の中に防空壕という言葉が突然出てくるが、地下鉄と同時に防空壕も作ったのかもしれない。この当時、中国とソ連の関係が悪化し、中国はソ連の核攻撃を恐れ防空壕を作ったらしい。その防空壕には私も偶然潜入したことがある。


 上の文を書いた人物は、その頃まだが学生で、城壁を破壊する狂乱の中で、陶酔して城壁を壊していくのであるが、その行為は北京人の血と肉である城門を破壊することであり、民族の魂をも破壊していることに気づく由もなく、まして城壁の取り壊しに反対している梁思成などがいることなど知らなかったと書いている。この文を書いた人物は、城壁の取り壊しに反対していた梁思成については、後に知ったようである。

 梁思成は、この文化大革命の初期に迫害を受けて酷い目に合っている。梁思成は年をとって病気になっているにもかかわらず、「反動学術権威」として批判対象として利用価値があると言うことで、「最高指示」が出されたらしい。病院から引きずり出されつるし上げにあっている。「最高指示」とは毛沢東による指示のことかも。これにより梁思成は心身共に踏みにじられ、1972年の1月9日文化大革命のさなか、貧しさの中で病没している。1972年には北京の城壁の取り壊しが完了した年である。奇しくも北京の城壁も悲劇の建築家梁思成も、1972年に命を終えている。

 文化大革命の初期に、故宮を破壊して「人民休憩室」を造るなどの具体的な驚くべき計画があったことは、最初に紹介した「毛沢東の一言が北京の古い城壁を破壊した」の中に書かれている。これも毛沢東が指示したことであるらしい。これについて2005年10月14日に故宮博物館の院長の鄭欣氏が、《光明日報》に文章を発表しているて、それによるとこれらのプロジェクトの一部は実現して、「人民の休憩室」などはできたらしいが、その他の計画は余裕がなく、故宮は運が良く破壊を免れたとある。何故故宮を破壊しなければならないのか。やはり宮殿や門額などが「封建意識」を代表しているからだと書かれている。

 故宮を取り壊して改造する計画については、周恩来も同意せざるを得ず。その後の1958年9月に北京市が作った「北京の総体規画説明」と言う案の中には「根本的改造」というのがあり、故宮(紫禁城)の改造も含まれていたのである。

 ところでプロジェクトの一部が実現されて、「人民の休憩室」などはできたというのは、どの辺りか? もしかしたら、天安門の東側にある一角(故宮内)に、労働人民文化宮とか労働劇場などという、およそ故宮とは似つかわしくない建物がある。多分そこが故宮を改造して作ったものかもしれない。

 「梁思成」については、日本語に翻訳された「北京再造―古都の命運と建築家梁思成」の中に詳しく紹介されているらしい。元は王軍とう中国人の記者が書いた「城記」であるが、それを北京の胡同に住んでいるという多田麻美さんと言う人が訳したものである。梁思成は日本で生まれている。お父さんは梁啓超という人で、日本に亡命してきて、日本製漢語を初めて中国に送り出した人である。梁思成の業績を調べると、その業績は正しく記録されているようであるが、北京の城壁の取り壊しに反対したことは記録されていない。

 城壁の破壊は1953年に始って、毛沢東が発動した文化大革命の狂気の時代のさなかの、1972年に終わるのである。





トップ アイコン  トップページへもどる

直線上に配置

inserted by FC2 system