屋根から樹が生えている光景・なぜ四合院は大雑院化したのか
(2009年5月8日)


  なぜ四合院は大雑院化したのかについては、既に何回か日記に書いてみたが、やっぱりもう一度書いてみたい。私は今、日本に戻っているが、私にとって北京で印象深かったのは、屋根から樹が生えている光景である。それは四合院が大雑院化した結果なのである。四合院とは、中国の伝統的なお屋敷の作り方であり、大雑院とはそれが、雑居の家族に占有されてスラム化した様子を言うのである。何故北京にスラムがあるのか? 大雑院はスラムとまでは言えないかもしれないが、スラムのようなところである。

  北京に来る観光客が、殆ど気が付かない異様な光景がある。それは郊外にあるのではなく、却って北京観光の対象である胡同の近くにそれはある。それは伝統的建物である四合院(中国の古くからのお屋敷の様式)の中だったりする。その屋敷の中の建物の屋根からニョキッと大木が生えていたりする。

  建物の屋根から樹が生えている様子は下の写真のようである。ここは北京の歴史的な建物、南海会館の門から、中をみた光景である。


  中国の明治維新を断行しようとしていた康有為が住んでいたところである。しかしその改革が西太后の反感を買い、逮捕されかかって、危うくこの南海会館から逃げ出して助かったという、歴史的なお屋敷なのである。 その歴史的南海会館の中はこの有様はこうである。屋根を突き破って樹が生えてきたのではなく、生えている樹を囲んで小屋を作ったのである。小屋といっても人の住む住宅である。

  これは四合院の中ではないが、屋根から巨木がにょっきりと生えている。見事な生えっぷりである。


  ここは大きなお屋敷跡であったところだが 、中庭だったとろは、びっしりと建増しされた建物で埋め尽くされている。北京市民は樹を切らず大事にしていることはわかるのだが・・・・・。


ここでも屋敷内の巨木を、見事に囲い込んで建物が増築されている。


  建物と樹との関係で、こんな光景もある。建物と樹との共生関係とでも言ったらいいのかもしれない。


  わたしの関心事は、四合院が何故こんなことになってしまったのか、しかも何故オリンピックが開かれた北京に、こんな光景が今でも残っているのか。これらの状態は違法な状態ではないのか。合法なのか? ということである。

  北京に古くからある胡同(路地のこと)の左右をよく見れば、四合院の門が開いているが、その中は既に大雑院化している。大雑院化していることは、門のところに収容しきれない自転車が乱雑に置かれているのを見ればわかる。この門の奥には数十所帯もの人が雑居して住んでいるのである。


  その中に入ってみれば、どこからかかき集めてきたガラクタが積み上げられて、乱雑さ極まりない有様である。軒下に練炭やレンガなどのガラクタを置きっ放しにして乱雑に見えるのは、これも中国的光景なのだが、異様な光景と言うのはそのことではない。


  それは昔の四合院らしきお屋敷の中が、立錐の余地無く、バラックのような、不法建築のような建物が立て込んで占拠されている光景である。そしてある建物の屋根から大樹が突き出ていたりする。広い庭だったと思われるところには、自転車がようやく通れるだけの通路を残して、建増しした家が建てられ、家の外には家に置ききれないガラクタを積んである。まるでスラムのような有様である。


  その建増しされた建物は、レンガをかき集めてきて建増ししたものである。建増しの方法は既に他の家の壁を自分の部屋の壁として建増しするのである。だからそれは狭い空間の中で、癌が増殖するように部屋が増殖していって、ついには細い通路だけが残されている状態になった。

  下の写真の左側の黒いレンガは古い建物であるらしい。赤レンガの小屋は建増しされた建物で、右側には僅かに狭い通路だけが残されている。中央に見えるドアがある部屋は、もしかしたら幅1.5mにも満たない狭い部屋かもしれない。


  立錐の余地無く建増された建物は、個人の屋敷であったところに、何十所帯もの家族が入り込んで家を占拠して建増ししたためである。このように狭く限られた空間に、何十所帯もの家が密集して建て込んでいる状態を大雑院という。昔、個人のお屋敷であったところが、見知らぬ他人が住む雑居の状態になっているのである。

  建増しされた部屋というのは、とても狭い。そして乱雑。畳二枚分くらいの部屋もあったり、奥行き1.5mの狭い幅の部屋もあったりする。長屋門のような門の脇に建増しされた炊事場だけの部屋もある。炊事場だけの部屋が一所帯分とは思えないから、別のところに寝るための部屋もあるのかもしれない。

お屋敷の長屋門の脇に作られた、炊事場だけの小さな部屋。


大雑院の各所帯に水道はきているようである。下水もある。しかし大雑院の中にトイレは一つも無い。トイレは大雑院の外にある共同トイレである。暖房は今でも練炭が使われている。

  こんな光景は北京市内にあちこちに残されている。しかし観光客は殆どこの光景に気が付かない。北京の新しい団地に住む住人もこのことに気が付いていないかもしれない。なかなか気が付かない理由は、大雑院の構造にもある。もともと、中国語の「院」とは囲まれた空間を言うらしく、「院」は所有地のそのぎりぎり一杯まで建物を作って、塀で囲むのではなく建物で囲み、入り口は一つだけにする。その囲まれて密閉された空間を「院」と言うのだが、四合院も同じ構造である。一般に中国では所有地の境まで一杯一杯に建物をつくるから、隣の家と密接している。「院」は門が一つあるだけの閉鎖的な空間なのである。

これが大雑院の院の門、入り口は一つだけ。


  だから院の奥がどうなっているかはなかなかわかりにくい。それで観光客も北京市民でさえも、その中が大雑院になっているなんて、よく見なければ気が付かない。実はその中が大雑院であることは、門のところに、何十もの電気のメーターが取り付けられていることでもわかる。電気のメーターだけの所帯が、その大雑院の中に住んでいるのである。二三十個ものメーターが古い門の内側に取り付けられてあったりする。その門は個人の門ではなく、共同の門だから、修理の責任が曖昧になり、手入れされておらず、たいていが荒れ果てている。

写真上部に見えるのが電気のメーター。大雑院の門の中。


  「院」には伝統的な四合院もあるし、そうでない「院」もある。四合院でない「院」とは例えば、家と家との間に空間があったとすれば、その空間を閉鎖して道路に面して一つだけの門を作れば、それが一つの「院」となる。一つの路地に門を設けたのも「院」であるが、その路地は袋小路になっている。

  四合院である「院」は、大雑院になってしまったものもが多いが、大雑院になった四合院の門は、開け放しになっていて、扉が無くなっているところが多い。それに比べて個人所有の四合院であると手入れがされていて、殆どは閉ざされている。

この写真は、大雑院化されてない四合院の門である。この建物は「保護院落」と書かれていて、保護の対象の院であるらしい。門もちゃんとしている。


  ここで疑問なのは、多くの四合院が大雑院化していく中で、何故個人の院として残ったのかと言うことである。個人の院として残ったのではなく、大雑院化していたものが、個人に戻されたのだろうか。四合院の変遷について知りたいのだが。

  余談だが、秘密めいた門の奥の大雑院は覗けるのか。入って見てもいいものなのか。大雑院なら入って見てもいいのである。私自身も始めは躊躇したが、門の辺りでウロウロしていたら、そこの住民らしき人がもっと奥には古い建物もあるよ、なんて教えてくれた。考えてみれば、日本の江戸時代の長屋の通路と同じではないかと気が付いた。つまり大雑院の中の路地は公道であるはずである。だから大雑院の中にその公道を通って入ってもいいのである。しかし大雑院の中の通路はとても狭く、乱雑で心理的にも入り難い。江戸時代の日本の長屋の路地の方がずっと清潔ではなかったのはなかろうか。

  個人所有の四合院が雑居の大雑院になった理由は、なんとなく分ようになってきた。それ中国は共産主義の国であったから、個人の土地や財産を接収したこともあったのだろうし、また文化大革命の大混乱があった。この時はあらゆる文化財を破壊したり、四合院の住人をつるし上げるために、四合院に入り込んで荒らした。異常な無法状態があって、四合院が大雑院化したのだと思う。

  しかし、想像は出来ても。何時どのような経緯で大雑院化したかは、詳しくその変遷を調べようとしてもあまりはっきりわからないである。何時、頃誰によって、どんな状況で四合院は大雑院化されたのか? 大雑院化しなかった四合院は、どんな人の持ち物であったのかだとかも分からない。政府の幹部の所有であったからなのか。それも分からない。

  そして今でも続いているお屋敷の占拠状態や、屋根から樹が生えてる状態は違法なのか、そうではないのか。それも知りたいが分からない。そして今でも、胡同といわれる北京の路地でも違法と思われる建物がある。

  それがこれ。既にある建物の路地側に、狭い部屋が張り付いている。幅1.5mくらいの独立した部屋が正面にも、右側にも張り付けてあるのである。


  誰が部屋を路地側に貼り付けて増築したのか? 恐らく奥の建物の住人が内側から増築したのではないらしく、赤の他人(?)が貼り付けて住まい(?)にしているようである。かっての無法状態が今でもそのままになっているようにも見える。北京の路地でのこういう建物は違法ではないのか?

  分からないことが多いのだが、もしかしたら四合院の大雑院化は毛沢東の文化大革命にかかわる負の遺産であり、恥部であるから、このことについては、北京政府としては触れたくないことなのかもしれない。それで四合院の変遷についての記述が少ないのかとも思える。北京の城壁や城門を取り壊させたのは毛沢東なのであるが、北京市計画館の展示を見ても、北京城の歴史の展示の中に、城門や城壁が取り壊されたいきさつは全く触れられていない。それと同じく、北京の四合院の変大雑院化は、毛沢東の負の業績だから、触れられたくないのかもしれない。

  実は、最近、日本の研究で、専修大学社会科学研究所月報の日中学術シンポジューム・調査特集号の中に以下の記述があるのを見つけた。やはり、屋根から大木が突き抜けている光景は、毛沢東の文化大革命が最大の元凶であるらしい。下のB 文化大革命:個人住宅の接収 を参照のこと。


A 個人的賃貸住宅経営の禁止

1956年から個人による賃貸住宅経営が禁止され国家による賃貸住宅経営が開始された。これは1953年から行われた商工業に対する社会主義改革の一環で、私的な経営を国有化するものであった。 1958年、公共家屋家賃の不完全な標準を訂正し、平方米あたり月額を中有高層建築、行政・文教機関等、企業、住居別に定めた(通称:「58標準」)。この安い賃料の結果、この金額では解放時の方針「以租養房」(賃料で家屋を維持する)ができなくなり、住宅の質の低下に拍車がかかることとなった。このような住宅事情の悪化にともない、1963年には華僑向けに分譲住宅が造られ始め、これが住宅商品化のさきがけとなった。 城区では15部屋、225平米以上の賃貸家屋の経営を国家が統一的に行い、住宅の所有権を持つ家主に賃貸料の20〜40%を固定取分(租息)として交付することとなった。

B 文化大革命:個人住宅の接収

北京市住宅管理局が多くの個人住宅を接収した。四合院から一世帯が引っ越すとそこには数世帯が入り、勝手に増築し四合院が大雑院と化していった。また、相互に監視・密告が行われ人間関係・近隣関係が悪化した。 1966年、固定取分の交付が停止され、賃貸家屋は全民所有制になった。北京市で接収された私有家屋は50万戸あまりで、そのうち家主の自己居住用は27万戸、賃貸用は23万戸、とくに締め出された家主の自己居住用は8万戸にのぼった。 文革以前の「58標準」により賃貸住宅のメンテナンスが難しくなっていた所に、文革時の粗悪な増改築が重なり、さらに唐山地震(1976)による家屋被害がこれに加わり、市街地の住環境は劣悪になっていった。

C 個人所有住宅所有権の返還

文革後1978年、北京市では「個人家屋占拠の機関、企事業単位の迅速な退去に関する通知」を発し、これが1982年から実行され、1984年末までに所有権返還は49万戸、87年末までに不当占拠された自己居住用家屋の明け渡しは76.8%となった。
文革時に接収された個人住宅には自家用住宅と賃貸住宅があった。自家用住宅は返還されたが、賃貸住宅については住人付きで返還が行われた。建物の所有権は持ち主に返還されたが、賃貸住宅経営は住宅管理局が行うとする従来の経営体制のままで、建物の所有者に支配権や経営権はなかったため、文革後もそこに居座る居住者を追い出すことができなかった。その後も現在に至るまで、住宅管理所が経営する居室に勝手に工場が造られ(雑院の隣の部屋が工場になってしまった!)、固定取分(租息)が支払われないままという状況があちこちで現存している。


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