今でも盗掘は続いているか。柳湾墓地遺蹟を見に行く。

2011年4月、柳湾墓地遺蹟を見てきた。柳湾墓地遺蹟は、甘粛省の省都蘭州と
青海省の省都西寧との中間にある。
青海省の省都西寧から楽都県まで東に65kをバスで行き、
そこからタクシーをチャターして更に東に17k行ったところに、柳湾墓地遺跡はあった。

中国最初の盗掘が行われたのは甘粛省であって、私が行ったのはそこではない。
青海省の柳湾墓地遺跡である。柳湾墓地遺跡は今までに発見された新石器時代の、
中国最大の氏族社会の共同墓地である。



この柳湾墓地遺跡では2千近い墓が発見され、出土した文物は4万件もあり、そのうち、
彩陶は1万7千も出土した。最も多く土器が出土した墓は、なんと一つの墓で
91件もの土器が中央の人骨の周りに並べられていた。柳湾墓地遺跡は今までに中国で
発見された最大の広大な原始氏族社会の公共墓地である。 3500~4500年前頃の墓地である。




そんな新石器時代の貴重な遺蹟にしては、荒れ放題。何の保護もされていない。
穴のように見えるのは盗掘跡か? チャンとした発掘調査ならこんな穴は開かないと思うが。




盗掘の穴らしい。盗掘が成功して土器を掘り当ててかどうかは定かではない



シャベルの跡も生々しい盗掘跡。この盗掘は回教徒の回族の仕業ではないかもしれない。
チャーターした運転手の話では、この地方には回族は少ないと言っていた。
それなら盗掘の穴を掘ったのは漢族の農民か。




これはかなり古い盗掘跡のように見える。
考古学の発掘調ならこんな穴は掘らないと思うが。




柳湾墓地遺蹟の下にある部落で、日向ぼっこをしている爺さんに
彩陶を持っている人は居ないかと聞いてみると。




爺さんが言うにはこの家の主人なら彩陶を持っているという。



しばらくすると、その家の主人が帰ってきたので、彩陶を見せて貰うことにした。
この部屋の奥に確かに三個の彩陶が確かにあった。その彩陶はどこから出てきたのか聞き忘れた。
また三個の彩陶の写真を撮るのも忘れてしまった。残念なことである。




この建物は柳湾墓地遺跡の近くに建てられた柳湾彩陶博物館である
柳湾彩陶博物館は小島プレスの元会長小島鐐二郎氏の寄付によって作られたものである。
ここを訪れたとき、私以外に見学者はいなくて鍵が掛かっていた。
この博物館は僻地と言ってもいいようなところにある。見学に来る人は殆どいないだろう。

小島鐐二郎氏は青海省の青海省博物館にも寄付をしていて青海省西寧では有名な人である。
アンダーソン土器に興味を持って柳湾彩陶博物館を訪れる人は、殆どいないと思われるが、
貴重なアンダーソン土器が多数展示されていた。建物に描かれているのは、
5人が手を繋いで踊っている有名な紋様である。前に書いたがこの紋様の偽物を
買ってしまったことがある。日本でもこの紋様の偽物が売られているのを見つけた。



柳湾彩陶博物館に飾られていた壺、馬家窯文化の馬廠タイプのものである



柳湾彩陶博物館に飾られた壺、人型が掘られていて珍しいものである。
柳湾彩陶博物館には沢山の彩陶が展示されている。



今でも盗掘が行われているかどうかを確認に行ったと言うのは嘘である。
柳湾墓地に行ってみたら盗掘跡があったと言うのが本当のことである。
では何故柳湾墓地に行ったのか.。それは私がアンダーソン博士の本を
読んでみると、アンダーソン博士が調査探検に行った「貴徳」と言うところに、
綺麗な風景があると書かれていたので、「貴徳」に行ってみたくなったのである。
そして貴徳に行ったついでに西寧から東にある柳湾墓地遺跡にも行ってみたら,
盗掘跡があったと言うことである。


貴徳の光景についはアンダ―ソン博士が書いた「黄土地帯」(日本語の訳の初版本は昭和17年発行)
書かれていて、「23日には早くも貴徳付近に於ける黄河の素晴らしい光景を望むことができた。
視野のうちにある60マイルの黄河の景観は晴れ渡った朝の光の中に珍しくも美しいものだった」と
貴徳の黄河の美しさについて書いている。

また渓谷が美しいことにも感動して「この渓谷景観の雄大さにしばし恍惚としたのだった。
ロッチーは貴徳における渓谷景観を北米のグランドキャニオンに比しているが、
事実その類似は極めて顕著である」とも書いているのである。

貴徳が、そんなに美しい所であるならば是非行ってみなくてはと、中国語のネットで
貴徳についていろいろ調べてみた。そうすると貴徳には確かに美しくも青い黄河が流れていて、
阿什貢(アシ―ゴン)と言うところに丹霞地貌という赤い山が有ることも分かった。
また貴徳は古い楼閣や廟などが残っていて古い街であることも分かった。と言うわけで貴徳には
ほかでは見られない光景があることが分かり、どうしても貴徳に行きたくなったのである。

実は2011年4月に貴徳に行ってみて、アンダ―ソン博士が記述した文章は、少しばかり誇張で
あることがわかった。「60マイルの黄河の景観」と言えば100kmもの黄河が一望出来るはずである。
しかしそんなところは無かった。しかし貴徳には青い黄河が流れていて赤い山、古い街もあった。
黄土高原の黄河が青く流れる辺りはチベット族の居住地帯になり、政治的に微妙な地帯であるらしい。


貴徳の赤い山、青い黄河の写真は下をクリック
 
青海省・貴徳の赤い山・貴徳丹霞
地貌。阿什貢(アシ―ゴン)という
ところにある。
青海省・貴徳のそばを流れる
黄河。ここの黄河は上流で
あるから青いのである。



北京に戻りアンダーソン土器を購入する

青い黄河や赤い地層が見える貴徳の風景を見て、富士山より高3820mの拉鶏山という雪の峠
(四月であると言うのに)を越えて青海省の省都・西寧に戻り、そこから飛行機で北京に戻ってから、
やはりアンダーソン土器を買うことにした。
アンダーソン土器の売人と連絡を取って、売人の自宅まで行って土器を買った。

下は馬家窯文化・馬家窯タイプの土器である。これは古い時代のものであるし、
珍しい動物(蛙?)の紋様であるためか、小さいのに高かった。
馬家窯文化・馬家窯タイプの特徴である波型模様がある。
この土器の憎い演出は、紋様の中央の辺りある石灰カルシュームの析出物を
完全に拭き取らず残してある点である。もし希塩酸で拭けばこの石灰カルシュームの
析出物は、酸アルカリ反応で、煙を出してたちまち消失してしまうはずである。
しかしそうしないで石灰カルシュームの析出物をわざと残して残しておくことで
このものが本物であることを強調しているのである。
またこの土器に鼻を近づけて臭いを嗅ぐと黄土高原の匂いがする。



これは馬家窯文化・馬廠タイプの土器である。馬廠タイプの典型的な四つの円形紋がある。
大きな壺であるが上のものの三分の一の値段だった。大きいのに安いのは紋様が薄いせいか。
時代も新しい。紋様も珍しい物ではない。




これも馬家窯文化・馬廠タイプの土器で、中国の図鑑に依ればこの紋様を
神人紋だとする解説がある。何故、神と関係あるのか分からないが。



下の円盤状のものは斉家文化のトルコ石の象眼のある璧(へき)である。これも購入した。
仮面のようなものの目と口には海産の夜光貝のようなものが象嵌されている。
内陸部の甘粛省に夜光貝が伝わったのだろうか。甘粛省の斉家文化の
玉器について書くと長くなるから書かない。(以上、2011年4月北京で購入)




アンダーソン土器の文化を担った民族はどんな種族か。
殷王朝によって占いのたびに首を刎ねられていた羌族で
あったらしい

謝端鋸氏の著書「甘青地区史前考古」(中国語)2002年発行、によれば
「甘青地区で発見された石器時代の遺蹟は全て古代羌族の残したものである」と
書かれている。p228
甘青地区とは甘粛省と青海省のことでアンダーソン土器が出土するのはまさに甘青地区である。
従ってアンダーソン土器を作った文化を担ったのは古代羌族かその支族であったらしい。
そして羌族は中国中華文明から見れば辺境の氏族であった。
中華思想によれば中華民族を中心に東西南北に蛮族がいたらしい。
すなわち東には東夷、西には西戒、南には南蛮、北には北狄がいた。
羌族は中華中原の民族から見ればまさに西の蛮族・西戒であったかもしれない。

アンダ―ソン博士が発見した文化は下のような文化である。それを古い順に並べれば

馬家窯文化・馬家窯型
馬家窯文化・半山型
馬家窯文化・馬廠型
斉家文化
卡約文化
辛店文化
寺窪文化
沙井文化

そのすべての文化が古代羌族の文化であるらしいのだが、特に後半の青銅器時代に
入った文化である卡約文化、辛店文化、寺窪文化は古代羌族(キョウ族)の文化だとする根拠が多い。
卡約文化、辛店文化、寺窪文化の時代は、殷(商代)、周代に当たり、殷代や周代の記録にも
羌族は登場する。

その羌族は殷王朝の占いの為の犠牲として、遥か遠い甘粛省
(殷の本拠地から800kmも離れているのに)から
連れてこられて、占いの度に首を刎ねられた生贄とされたらしい。
NHKのテレビ(中国文明の謎 第二集 漢字誕生、王朝交代の秘密 
20012年11月11日放映)でそう言っていた。

殷王朝では占いをする際に、甲骨文字を亀の甲羅などに書き込んだ。
同時に占いの際には大量の人の首の犠牲が必要だった。
下の写真は首が無い犠牲にされた、殷王朝の遺蹟の遺体。


占いの為の人の生贄として捕えられたのは羌族だった。
そのため甲骨文字の中には「羌」の甲骨文字が度々表れる。
その「羌」の甲骨文字は人の頭に羊の角が生えたような文字である。




何故「羌」の甲骨文字は人の頭に羊の角が生えたような文字なのか。
羌族の文化は牧畜と農業の文化であって、牧畜の中でも特に羊は重要な位置を占め
羊神として崇拝の対象とされていた。羌族の羌の字は羊の角を模した字であるかもしれない。
実際にアンダーソン土器の最後の方の文化である辛店文化の土器には羊の角をシンボルと
したような紋様がある。下の壺は辛店文化の壺で、羊の角が描かれている。

辛店文化の壺に描かれた羊の角と甲骨文字の羌の字の頭の角は非常に良く似ている。


もしかしたら亀甲文字の羌の字のルーツは辛店文化の壺に
描かれた羊の角の紋様であったかもしれない。

今から3000年前、甘粛省で辛店文化やその他の文化のアンダーソン土器を
作っていたのは羌族だった。一方殷王朝は同じ頃の3000年位前、
河南省にあった王朝である。甘粛省と河南省とは800㎞も離れていて、殷王朝の版図と
羌族の居住地とは接していなかった。にもかかわらず、殷王朝は生贄を求めて
甘粛省まで800kmも遠征したのではないかとNHKのテレビで言っていた。


これらの画像はオンデマンドでお金を払って見た (中国文明の謎 第二集 漢字誕生
王朝交代の秘密 20012年11月11日放映)映像からのものである。

NHKのテレビでは確かに下のような画像も放映された。


800kmも遠征して人狩りをしていたのかどうかは疑問が残るが、その時代羌族は甘粛省から
もっと東の方に移動していて殷王朝と接していたという説もある。
その後も羌族は移動を続け長い間歴史に登場する。
現代の 羌族の末裔は四川省の大地震があったあたりにチャン族として居住している。
そのチャン族はアンダーソン土器を作った古代羌族の末裔かもしれない。


下の辛店文化の土器にも羊角の紋様が描かれている。


殷王朝と同時期にあったアンダーソン土器の文化は卡約文化、辛店文化、寺窪文化、
沙井文化などで、これらは甘粛省などにあった。羌族はその後東に移動したと言う説があるが、
移動して行った先では彩陶は出土していない。羌族がアンダーソン土器を作っていたのは羌族が
甘青地区にいた頃のことだけであったらしい。
美しい彩文のある土器はこれらの文化の後、途絶えてしまって再び出現することはなかった。


今なら私にアンダーソン土器の真贋は鑑定出来るか

私がアンダーソン土器の真贋を鑑別できると言う状況証拠はある。
アンダーソン土器が出土する辺境の博物館を含めて下記の博物館で
アンダーソン土器を沢山見てきた。


西安の陜西省博物館
蘭州の甘粛省博物館
西寧の青海省博物館
青海省の柳湾墓地博物館
甘粛省臨夏市の彩陶博物館
北京の古陶文明博物館
西安郊外の半坡遺蹟博物館(ここにアンダーソン土器はないが)

でも、アンダーソン土器をじっくりと観察できたのは、北京の潘家園の骨董市場であったかもしれない。
本物のアンダーソン土器は黄土高原の土の臭いがしたり、アルカリ性である黄土のカルシュウムの
析出物がこびり付いている(ものもある)。これをよく観察できたのは潘家園の骨董市場であった。
それにアンダーソン土器の本物lはは1000℃前後の窯で焼かれる。
それ以上の高温の窯で焼れた様子があって5000年とかまたは3000年間も
土に埋まっていた様子が感じられないアンダーソン土器は偽物である。






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