アンダーソン土器の定義とアンダーソン博士について

 北京に住んでいた頃、骨董市でアンダーソン土器を沢山買ったのだが、この種の土器がアンダーソン土器と言われていることを知ったのは、「なんでも鑑定団」でこの土器がそう呼ばれていたのを聞いて、初めて知ったのである。中国の骨董屋にアンダーソン土器はないか?なんて聞いても通じない。そもそも中国には土器という言葉もない。北京の骨董屋はなんて言って売っているかというと、○○文化の土器だと言って売っている。日本でいえば縄文文化のものだとか、弥生土器だとか文化年代を言って売っているのである。

アンダーソン土器

 では誰がこれがアンダーソン土器だと言い出したのかというと日本の骨董屋ではないかと思う。日本にもたらされた中国の彩紋のある綺麗な土器は、アンダーソン博士によって発見されたことを知って、骨董屋がこれはアンダーソン土器だと言い出したのだと思う。下の写真の土器は殆どが北京の骨董市場潘家園(パンジャーエン)市場や、骨董屋街の瑠璃廠(リューリーチャン)で買ったものであるが、そこでアンダーソン土器があるかなんて聞いても通じない。それで疑問に感じたのだが、日本の骨董屋はアンダーソン博士が発見した土器の範囲を知っているのだろうかと。おそらく知らないと考えられる。何故ならアンダーソン博士の発見の範囲が分かるような考古学の文献は、日本には無いと考えられるからである。それならば私がアンダーソン土器の定義を決めようと考えた。
アンダーソン土器

 「アンダーソン土器とはアンダーソン博士が発見した土器」を言うのだから、「アンダーソン土器とはアンダーソン博士が発見した”文化”に属する土器」とすればアンダーソン土器の範囲は明確になる。アンダーソン博士は沢山の”文化”を発見していたのである。幸い私は中国で、「アンダーソン博士が発見した”文化”」が分かる考古学の本を手にいれることができた。その本は中国語の考古学の本で、「甘青地区史前考古」謝端琚著(文物出版社2002年発行)である。

 上の本に
よればアンダーソン博士が発見した「文化」は 馬家窯文化の馬家窯類型、馬家窯文化の半山類型、馬家窯文化の馬廠類型、斉家文化、卡約文化、辛店文化、寺窪文化、沙井文化である。だからそれらの文化に属した土器だけがアンダーソン土器と言えるのである。ところで 上の文化の中には彩文のない無紋の土器もあるが、骨董屋は無紋の土器はアンダーソン土器ではないとしているようだが、私の定義によれば無紋の土器であってもアンダーソン土器である。

 アンダーソン土器の範囲(アンダーソン博士が発見した文化)が分かっても、それだけでは(例えば)下の土器がアンダーソン土器かどうかは分からない。図鑑と比較して見なけらば判別できないはずである。日本にはアンダーソン土器の図鑑は無いと考えられるので、卡約文化、辛店文化、寺窪文化、などの数の少ない文化の土器については、なんでも鑑定団の先生と言えどもアンダーソン土器かどうか判別できないと思う。なんでも鑑定団の先生は下の写真の土器を、アンダーソン土器と、そうではないもに分けられるだろうか。
アンダーソン土器

 試しにヤクオフで、アンダーソン土器で検索してみると、下の例では3個か4個はアンダーソン土器ではないものが含まれている。下の例では出品者がアンダーソン土器と言っているのだが、骨董屋にしてもアンダーソン土器の識別はこの程度だと考えられる。


 幸い私は中国で図鑑を手に入れることができた。それでアンダーソン土器を判別できる。但し中国の図鑑は、アンダーソン土器の為の図鑑はない。中国にはアンダーソン土器という言葉も無いのだから。しかし中国の図鑑にはどの文化に属する土器か、が書かれている。例えば、斉家文化のものと書かれていれば、それはアンダーソン博士が発見した文化なのだから、その文化に属する土器はアンダーソン土器なのである。私には中国で買った図鑑と考古学の本があるので、アンダーソン土器を判別できるのである。

  ちなみに、どうやってアンダーソン土器かどうかを判別するかの例を挙げてみるが、まず最初にその土器がどの文化の土器なのか知らなければならない。
 アンダーソン土器ではない アンダーソン土器 
 この土器は仰韶文化半坡型の土器である。仰韶文化半坡型の土器は、アンダーソン博士の発見とは関係が無い。だからこれはアンダーソン土器ではない。  この土器は斉家文化の土器である。土器に彩紋は無いが、斉家文化はアンダーソン博士が発見した文化であるので、これはアンダーソン土器である。
 アンダーソン土器
 これは仰韶文化・半坡型の土器で、アンダーソン博士の発見とは関係が無い。だからこれはアンダーソン土器ではない。日本の骨董屋の中には彩紋があるからアンダーソン土器だと言っている骨董屋もいるが。  これは寺窪文化の三足の土器で無紋の土器である。寺窪文化はアンダーソン博士が発見した文化である。だからこれはアンダーソン土器である。
   
これは馬家窯文化の半山型の土器で馬家窯文化の半山型はアンダーソン博士が発見した文化である。だからこれはアンダーソン土器。 これは馬家窯文化の馬廠型の土器で馬家窯文化の半山型はアンダーソン博士が発見した文化である。だからこれはアンダーソン土器


アンダーソン土器の定義のまとめ

 中国語の考古学の本、「甘青地区史前考古」謝端琚著(文物出版社2002年発行)によれば甘青地区(甘粛省、青海省)の文化は細かく分けられていて、下のような文化があるが、そのうち緑色の文化がアンダーソン博士が発見した文化である。

大地湾一期文化(BC6200~BC5400)
師趙村一期文化(BC5300~BC4900)
仰韶早期文化(BC4800~BC3800)
仰韶中期文化(BC3900~BC3500)
馬家窯文化・石嶺下類型(BC3800~BC3200)
馬家窯文化・馬家窯類型(BC3400~BC2700)
馬家窯文化・半山類型(BC2500~BC2300)
馬家窯文化・馬廠類型(BC2300~BC2000)
斉家文化(BC2100~BC1900)

四坝文化(BC1900~BC1400)
卡約文化(BC1600~BC600)
辛店文化(BC1400~BC700)
寺窪文化(BC1400~BC600)

諾木洪文化(BC1400~BC700)
沙井文化(BC900~BC600


すなわち下の文化に属する土器がアンダーソン土器といえるのである。
馬家窯文化・馬家窯類型
馬家窯文化・半山類型
馬家窯文化・馬廠類型
斉家文化

卡約文化
辛店文化
寺窪文化

沙井文化


アンダーソン土器に仰韶(ぎょうしょう)土器と言われるものはない

 2009年02月17日放映の「開運なんでも鑑定団」に出品されたもものは、下の写真のもの(私の収集品)とソックリな壺を中島誠之助氏が、これはアンダーソン土器だと言い、仰韶(ぎょうしょう)土器とも言うと鑑定していた。この土器は確かにアンダーソン土器であるが、今ではこの種の土器を仰韶(ぎょうしょう)土器とは言わないのである。
アンダーソン土器

 実は1921年にアンダーソン博士は中国の河南省仰韶(ぎょうしょう)村で、彩紋のある土器を発見していて、それが中国における土器の最初の発見なのだが、アンダーソン博士を有名にしたのは、そこからはるか離れた甘粛省などのきれいな彩紋のある土器の発掘であった。そこで河南省の仰韶村のものなどは足元にも及ばないほどの美しい彩紋のある土器を大量に発見したのである。そこでアンダーソン博士は甘粛省などで発見した土器を、仰韶村の土器と同じ時期のものと考えたようである。しかしその後の研究でアンダーソン博士が甘粛省で発見した土器は、仰韶村の土器より新しいものと分かり、今では甘粛省や青海省で発掘された彩紋のある土器を仰韶土器とは言わないのである。

 実はアンダーソン博士がこの種の土器を発見した頃は「文化」という言い方はなかった。アンダーソン博士の著書「黄土地帯」(昭和17年初版発行、日本語訳あり)では、自ら発見した文化を六期に区分していた。

斉家期
仰韶期
馬廠期
寺窪期
辛店期
沙井期

上の六期の中には仰韶期があるが今ではこの説は否定されていている。

考古学的にはダーソン土器をアンダーソン土器とは言わない

 偶然のことではあるが、東京国立博物館に、アンダーソン土器が40個位収蔵されていることが分かった。それは東京国立博物館の収蔵品を検索して分かったっことなのだが、アンダーソン土器という俗称では検索できなかった。「彩陶」という言葉で検索出来た。考古学的にはアンダーソン土器を彩陶と言うらしい。勿論、彩陶とアンダーソン土器の意味の範囲には違いがある。

アンダーソン博士の著書の中に、私の壺の絵とソックリなものがあった

   下のものは私の収集品で馬家窯文化・馬家窯類型の壺であるが、アンダーソン博士の著書「黄土地帯」(昭和17年初版発行、日本語訳あり)に殆ど同じ紋様の壺の写真が載っていた。アンダーソン博士によれば首のない動物の紋様は、首のない蛙と書いておられる。ダーソン博士の著書「黄土地帯」は古本屋にあったので購入した。
アンダーソン土器

 アンダーソン博士の著書の中の壺の写真。この壺は発掘したのではなく買い取った(1924年ごろ)らしい。アンダーソン博士によれば、この動物は首の無い蛙だと書いておられる。



アンダーソン博士とは

アンダーソン博士
 かって明治政府が外国人学者や技師を招請したように、中華国民国政府(?)もアンダーソン博士を地質学者としてスエーデンから招請した。招請した政府としては地下資源の発見などを期待したのかもしれないが、博士の興味は化石などであったようである。アンダーソン博士が北京原人の頭骨が出土した周口店を発見したのはまだ博士が地質学者の頃のことであった。周口店から何かが出るのではないかと言う博士の予感は当たり、9年後くらいには本当にここから北京原人の頭骨が発掘された。下の写真はアンダーソン博士の英語の原書(以前アンダーソン土器について研究していた人が貸してくれた本、その方は本物のアンダーソン土器を見たことがないっていた)に載っていた周口店の写真。北京の郊外にある。わたしも行ったことがある。現在はアンダーソン博士は考古学者として知られているが、元は地質学者だったのである。


 その後アンダーソン博士1921年に河南省仰韶(ぎょうしょう)村で、彩紋のある土器を発見した。更に中央アジアのアナウ遺跡で彩紋のある土器が出土しているという論文を読み、彩紋土器が黄河上流の蘭州あたりで、黄河を渡り中国に伝播したのではないかと予測して、黄河の上流を探検した。そしてその予測通り、黄河上流の黄土高原で多くの「文化」発見した。しかしその後彩紋のある土器が中央アジアから伝播したという説は否定されている。

アンダーソン博士はどうやって土器を集めたか

 アンダーソン博士は多くの遺蹟を発見し発掘した。しかしアンダーソン博士は完全な形の土器を沢山買い取ってもいる。1923年、青海省の青海湖の辺りや西寧、貴徳の辺りを調査して、この地方で彩紋土器が出土することを確信した。しかし完全な形の土器を手に入れることは出来なかったようである。そこで蘭州の宣教師に頼んで、伝道学校の子供たちに、壺や石器などの情報があったら教えてほしいと、子供達の親に伝えてもらった。すると驚くほど立派で綺麗な土器が集まりだした。そしてアンダーソン博士はそれを買い取った。

 最初に集まってきた土器は、その辺りの回族というイスラム教徒の家に保存されていた物らしかった。しかしアンダーソン博士が土器を買い取ると言う話が広まり、アンダーソン博士の家の前には土器を持った農民の行列が出来るまでになった。その土器は明らかに新たに掘り出されたものの様であった。そして博士は選別したうえで一日30個もの彩文土器を買い取ったこともあった。そうして博士はついに数百個もの土器を買い取ったのである。

 アンダーソン博士は当然その土器がどこから出土するのか、その遺蹟を知りたくなり助士に探らせた。そしてついに貴重な考古学の標準遺蹟ともなる半山遺蹟を発見したのだが、そこに辿り着いてみると、その遺跡は大盗掘で見るも無残な姿になっていた。

アンダーソン土器の盗掘に火をつけたのはアンダーソン博士である

 以下はアンダーソン著「黄土地帯」(日本語訳初版、昭和十七年発行)からの引用であるが、私はこの本を買って持っている。以下はそに書かれている大盗掘の様子である。「我々は四囲が完全に見渡せる高所に到達した。そうしてそこで大盗掘の跡をまざまざと見ることができた。掘り返された土の中には、蘭州で購入したと同種の立派な彩色土器片がそこここに散乱していた。多数の土器が土の圧力によって、墓中でつぶされ、また百姓どもがこの貴重な古墳墓をあらそって発掘したが為に壊されてしまったことは、疑をはさむ余地はなかった。しかし、全遺跡を殆ど完全に掠奪したこの最近の盗掘の為に、かえってその広袤が明確に示されたいた。狡知にたけた回教徒どもは1フィート位の鉄製探桿子によって、地中を浚え、驚くべき正確さをもって地表下1m以内にある副葬墓を掘り出していったのである。」

 「この第一墓地を大急ぎで調査した後、同種の第二墓地へ移ったのだが、ここでもまたあくなき冒涜と掠奪がなされていた。従って、無数の大きな美しい副葬壺を含む数百の古墳中における遺物の中に連絡を求むべき科学的調査を永遠に不可能ならしめたことは一目瞭然たるものがあった。ただ蘭州で我々が興味ある副葬壺をほとんど全部購入したことはせめてもの慰めだった」、
「我々がこれらの壺を購入するがために、この先史時代墓地にに対して、最も嘆かわしい掠奪の行われたことは疑う余地のなかった」。これが甘粛省での盗掘の始まりである。そして今でも盗掘は続いていて、掘り出すのは回族で、北京の骨董市場にアンダーソン土器が供給されている。私は甘粛省の柳湾墓地遺跡を見に行ったのだがそこにも新しい盗掘跡があった。

博士はアンダーソン土器800個以上をスエーデンに持ち帰った。
その後、その半分を中国に送り返したのに、
それは中国で行方不明になってしまった

 アンダーソン博士はこの様にして集めた土器を800個以上スエーデンに送った。これらの土器は殆どが破損のない完全な形の土器だったのではなかったろうか。前述の博士の著書「高土地帯」の中の写真を見ると殆ど亀裂などは無いものである。この理由はそれらの土器は購入したものではないだろうか。だからスエーデンに送られたものは美しい綺麗な土器ばかりだったのかもしれない。

 一旦は800個以上の土器がスエーデンに送られたが、スエーデンで研究したあと、半分が中国に送り返された。それは半分を中国に送り返すという1925年の協定があったからである。1927年から1926年まで7回に分けて400個以上の土器が中国に送り返された。しかし残念なことに中国に送り返された土器は、どこへ行ったか行方不明になり、未だに行方が分からない。因みに発掘された北京原人の頭骨も行方不明になったままである。

 もし、アンダーソン博士が土器を中国に送り返さなかったら、スエーデンに残されて博物館に今でもチャンと保存されていたはずである。しかしその場合、アンダーソン博士は中国の文物の簒奪者と非難されていたかもしれない。


アンダーソン土器はどこで買えるか

 北京のアジア最大の骨董市場と言われる潘家園の骨董市場で、アンダーソン土器は簡単に買える。盗掘品であると考えられるが、問題なく買える。


 アンダーソン土器を売っている骨董屋または売人は殆どが甘粛省の黄河上流に住む、イスラム教徒の回族と言う少数民族である。姓は殆どが「馬」である。馬はマー読み、マホメットのマーからきているらしい。回族の「馬」さん以外は殆どアンダーソン土器を扱っていない。アンダ―ソン博士が土器を買い取ったのも、回族の馬さんからだと考えられる。


 売人の回族の「馬」さんの住んでいる処に行ってみると、大量のアンダーソン土器がストックされていた。ここには偽物はないように見える。


 アンダーソン土器に偽物はある、残念なことに偽物を買ってしまったこともある

 下の写真は北京の潘家園の骨董市場に並べられていたものだが、手前の壺は偽物である。土に埋もれていた様子もないし、本物より高温で焼かれている。紋様に太陽のような紋があるが、半山タイプの土器には無い紋様である。



 下もってしまった偽物であるが、アンダ―ソン土器ではなく、仰韶文化半坡型の土器である。土器の本体は本物である。しかし本物の土器の上にその時代の代表的な紋様(人面魚)を書き加えたものである。しかも盆の内面にも外面にも有名な紋様が描かれていてるものは見たことはない。だから偽物である。
偽物のアンダーソン土器

 下も偽物でこれも買てしまった。この紋様は人が手を繋いで踊っている原始社会部落の様子を表している紋様で、珍しくも貴重な紋様である。そんな珍しい土器が目の前に現われたのでつい買ってしまった。しかし人が手を繋いで踊っている紋様と波型渦巻き紋が一緒に描かれた土器は本物のなのかと疑問が湧き、この土器を叩いてみるとかなり高温で焼かれた様子であった。だから偽物である。
偽物のアンダーソン土器

 おどろいたことに私が買った偽物とソックリの土器が、日本の骨董屋で売られていたのをホームページで見つけた。それは次のぺーじである。日本の骨董屋のページにある、私が買った偽物土器とソックリの土器。本物の土器というのは手作りだから、同じようなものがなかなかできないはずなのだが。それなのに両者はソックリである。日本にも偽物のアンダーソン土器は有るのである。

 後で分かったことだが、人が手を繋いで踊っている紋様の土器は中国全国で二つしか存在しないらしい。日本の骨董屋にある土器が本物であれば、三個目の舞踏紋様でとても珍しいものとなったはずである。
青海省博物館で本物を見てきた。
原始社会の群舞がかかれている
 多分甘粛省柳湾彩博物にあると思われるものだが、そこには展示されていなかった。
 アンダーソン土器 アンダーソン土器 



以上








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